「嫌だな。」と思うことがある。
不快な気分になるし、楽しくもなくなる。
生きていれば嫌なことなんて、「ひとつやふたつ」どころか、それこそ腐るほど出てくる。
嫌なことがあれば、嫌な気分になるのは当然。
それは「悪いこと」じゃないし、罪悪感を感じる必要はないと思う。
自分が何を感じたのか。
それを否定する権利は誰にもないよね?ってお話。
理想を求めてしまう自分が嫌
僕が抱えている問題のひとつに「上司に理想を求めてしまう」という問題がある。
例えば、僕が以前に働いていた職場は、真面目と言える従業員が少なかったと感じた。
- 仕事中に平気で寝てる人
- 働いてる時間より、スマホをイジる時間の方が多い人
- お酒臭い人
こういう人が多いと感じた。
まぁ、コイツらのことはどうでもいい。
僕も彼(女)らも時給で働いていた。
同じ時給なら、働かずにお金を貰う方が賢いのだろう。
僕が気に入らなかったのは、僕達を管理する上司だった。
その職場(上司達)の方針?としては、
- 働かないヤツに仕事を振るのはメンド臭い
- 働いてくれるヤツがやってくれれば良いや
と、感じてしまうモノだった。
事実、「寝ていようが」「お喋りばかりしてようが」「酒臭かろうが」注意している上司をほとんど見ることはなかった。
そんな職場では、当然「普通」に働く人にシワ寄せが来る。
僕のところにも「シワ寄せ」が降りかかった。
そんな時、僕は「部長」だろうが「施設長」だろうが牙をむいた。
「僕に求めるよりも、先にすることがあるでしょう?」
僕は「コレ」が凄く嫌だった。
僕の「主張」自体は間違っていないと思っている。
だけど、その「行動」は正解とは思わない。
会社は仕事が回れば、それで良いんだ。
「そこ」を僕はわかっていた。
わかっていながら
- なんで「こう」しないんだ!!
- 上司(会社)は動いてくれない
- また牙をむいた
このループに陥る。
上司だって良い気分はしないだろうし、何より僕自身が不快な気分になる。
状況が変わるわけでもないし、誰も得をしない。
毎回このループに陥る自分が嫌だったし、「変わりたい」と思っていた。
「感じない様にする」という悪手
僕は「彼(女)ら」の様に不真面目な仕事をするのは嫌だ。
「僕は僕の普通でやっていく。」
「彼(女)らは彼(女)らの普通でやればいい。」
いわゆる「働かないオジサン」なんてのは、どこの職場にもいるモンだ。
上司(会社)が「働かないオジサン」にいちいち注意するのがメンド臭いのもわかる。
改善しようとしない上司(職場)に期待して、いちいちイラついて牙をむくのはカッコ悪い。
そう思った僕は、「不真面目な人達」「改善しようとしない上司(会社)」を見ない様にした。
しかし、同じ職場で働く以上、「全く目に入れない」というのは不可能。
寝ている従業員を視界の端っこで捉える度にイライラが押し寄せて来る。
「あぁ、またイラついてる…。」
「僕には関係ない。」
「平常心…平常心…。」
こうやって、「気付かないフリ」「感じない様に」と、自分に言い聞かせた。
まぁ、かえって意識しちゃうわなw
職場が「イラつき」の場所になってしまった。
「真面目に働かないアイツらは悪だ!!」
「注意しない上司は、もっと悪だ!!」
「こんなことでいちいちイラついてる僕は、1番の悪だ!!」
いつの間にか、僕は「嫌なこと」と感じること自体が悪いことだと思う様になってしまった。
別に悪いことじゃないよね
僕があの職場で「嫌だ」と感じたことを全く気にしない人もいる。
僕は「そういう人」になりたいわけだ。
だから、「そんなこと」で嫌な気分になるのは悪いことなんだ。
と、思っていた。
僕が今思うのは、嫌な気分になることに「良い」も「悪い」もないよねってこと。
自分が「こんなことで…。」と、「くだらない理由」だと思っているモノがある。
だけど、「こんなことで…。」と嫌な気分になるってことは、自分にとっては重要な部分を害されたってことだと思う。
「他の人達は、こんなことでは落ち込まない。」
そんな風に考える必要はないんじゃないかと思う。
僕にとっては、「不真面目なヤツらを野放しにする上司(会社)」は不快なんだ。
だから、目にすれば嫌な気持ちになるし、イラついてしまうのは当然。
嫌な気持ちになるのは「嫌」だけど、嫌な気持ちになるのは決して「悪い」ことではないと思う。
嫌な気持ちにならない様に「改善」しようと試みるのは良いことだと思う。
だけど、「こんな気持ちになっちゃダメだ!!」とか「なんでいつもこうなっちゃうんだ!!」とかって、「それ」を悪いことだって拒絶する必要はないんだと思う。
僕が思うのは、「感じない様に!!」って拒絶するんじゃなくて、「あぁそうか、それは嫌だよね。」って受け入れるのが大切なんじゃないかと。
人が何を感じるのか。
それを否定する権利は誰にも無い。
自分が感じたモノを否定する権利は、「自分」にも無いと思う。
自分が嫌だと感じたモノを、せめて「自分自身」くらいは肯定して受け入れてあげたいなと。
自分が嫌だと感じたモノを「自分」が拒絶や否定したら、「自分」が可哀想じゃない。
「それは嫌だよね。ツラいよね。」って、自分自身に寄り添える様になって、だいぶ生きやすさは増したかなぁ。
そんなことを思いました。