あの家で育った僕は、変わり者になった。

僕が育った「家庭」は壊れていた。

「家庭崩壊」「機能不全家族」「毒親」「虐待」「貧困」「アルコール依存」「自殺未遂」などなど。

パッと思いついた問題だけでも、このザマだ。

当然だけど、僕はツラい思いをしてきた。

だけど、僕には「何がツラかったのか。」「どうツラかったのか。」を明確に把握出来ていなかった。

だから僕は「生きづらさ」を感じていたんだと思う。

「言語化」ってのは凄い。

「言語化作業」は「認知行動療法」に近かった。

僕は20代後半頃から「過去の出来事」や「自分の気持ち」を「言語化する作業」をしてきた。

「言語化」って言っても、要は「過去の日記」みたく、ノートなんかに書き殴っていたんだ。

「この作業」ってのは、心理療法でいうところの「認知行動療法」に近いみたいだ。

 

結果として、僕がやっていた「言語化する作業」は、僕の「生きづらさ」をかなり軽減してくれた。

「自分がどれだけ傷ついていたのか。」

「自分がどんな事を感じているのか。」

それを明確に把握する事が出来た。

自分がどれだけ「やりたくないこと」をやっていて、「やりたいこと」をやっていなかったのかが明確になったんだ。

 

僕は「生きづらさ」をあまり感じなくなった。

それは僕にとって、凄く喜ばしいことだ。

そして僕には、「僕の生い立ちを伝えたい」という欲が出てきた。

しかしそれは、「別の言語化」であって、「別の難しさ」があるモノだった。

「誰かに伝える」ってのは難しい。

自分で言うのもアレだけど、「僕の生い立ち」ってのは、なかなか稀有で面白いモノだと思っている。

だから「ブログにして公開したら面白いんじゃね?」と思い立ち、ブログを書き始めたわけだ。

 

僕は「自分の生い立ち」や「その事で感じた気持ち」をずっと言語化してきた。

「既に言語化出来ているモノを文字に起こすだけでしょ?簡単っしょw」と、余裕ぶっこいていたんだ。

しかし、これは本当に難しい。

あくまで「僕の言語化」は、「僕の経験を言語化したモノ」であって、それを「誰かに伝える作業」ってのは、全くの別モノだった。

 

例えるなら「色を認識出来ない人に色を伝える作業」に近いだろうか。

僕自身が「青色」を認識したければ、「晴れた日の空の色」とでも自分に説明すれば良い。

だけど、「色の認識が出来ない人」に「晴れた日の空の色だよ。」なんて言っても伝わるわけがない。

「だから、その色を聞いてんだよ!!」ってなるでしょうね。

 

僕が育った家庭はブッ壊れていた。

似た様な環境で育った人には少しは伝わったかもしれない。

だけど、僕自身が客観的に自分のブログを読み返してみても「?」ってなったりする。

「誰かに伝える」ってのは、本当に難しいですわ。

僕の生い立ちを伝える為に。

「書き方」を変えてみようかな。

僕はこのブログで、書きたい事を「そのまま」書いてきた。

「あんな事あったな。」「じゃあ、書こう。」って感じだ。

「そこ」には「時系列」や「順序立て」が存在しない。

 

最近、知人に僕のブログを評価してもらった。

結果、なかなかの酷評を頂いた。

知人「ツラい思いをしてきたのはわかったし、面白い話もあった。」

知人「だけど、チッタ君がどんな生い立ちなのかはサッパリわかんないねw」

グゥの音も出ねえ。

 

やっぱり、今の書き方じゃあ「生い立ち」は伝わらんか…。

じゃあ、書き方を変えてみようかな。

シリーズ化。

というわけで、「僕の時系列に沿った進め方」で書いてみようかと思い立ちました。

僕の生い立ちについては「あの家で育った僕は、変わり者になった。」で書き進めていこうかと思います。

他に書きたい事だったり、「補足的な記事」なんかは、その都度別に書いていこうかなと。

 

タイトルも「ドキュメンタリー」や「自伝」っぽい雰囲気出せたかな?

元々は、そんな感じで書き進めてみたかったし、丁度良いかと思う。

多分、その方が伝わりやすいだろうし、僕も書きやすいかもしれない。

とりあえず、「僕が生まれた頃から順番に書き進めますよ。」って感じでお願いします。

あの家で育った僕は、変わり者になった。

最後に「このシリーズ」の説明を。

僕は自分の事を、自他共に認める「変わり者」だと思っています。

だけど、「変わり者でとどまれた。」とも思っています。

 

昔、友人達に言われた「ひとこと」で、救われた気持ちになった事がある。

その時、僕は「まぁ俺、頭オカシイからw」と自虐的な話をしていたんだ。

今思い返しても痛々しい…。

 

そんな時に友人達が言ってくれた「ひとこと」。

友人「いや、むしろ、よくその程度でとどまれたよ。」

友人「チッタは変わり者程度だぞ?そんな家で育ったんなら、普通、もっとオカシクなってんだろ。」

この、「変わり者である事を肯定してくれた発言」は、僕を救ってくれた。

 

僕は「変わり者」であって、変わり者より「まとも」じゃなければ、変わり者より「オカシイ」わけでもない。

「お前は変わり者で、十分頑張ってきたよ。」と肯定してもらえたと、僕は受け取った。

彼らは「そんな事を言った」なんて覚えていないだろうが、確かに僕は救われた。

 

僕は「変わり者」である事に自信を持つ事が出来た。

「あの家で育った僕は、変わり者になった。」

「だけど、変わり者でとどまれたんだ。」

そんな思いを込めました。

そんな「変わり者」でとどまれた理由なんかを、「僕の生い立ち」に沿って話せていければと思います。

 

読んでくれる人の暇つぶし程度になればと努力していく所存です。

読んでくれる人がいれば、ありがたい限りでございます。

それではまた。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です