「常識」とはなんぞ?

あなたにとって「常識」とは何ですか?

辞書を引いたりせずに、自分の言葉で考えでは何と答えるでしょう?

僕が出した答えは「多数派」という答え。

 

昔の僕は「守るべきモノ」と答えていたと思います。

本来の僕は「空気を読む」という事が苦手です。

空気を読むのが苦手なのですから、常識やルールといった「守っておけばOK」みたいなモノがあるとありがたいんですね。

でもね、常識やルールでガチガチに固められると、それはそれで息苦しいんですよね。

 

「常識」には、「なんでこんなメンド臭えモンがあるんだよ。」と感じるモノがあります。

メンド臭いけど、常識という枠から外れてしまわない為に常識に従います。

上手く立ち回れる人は、「枠から外れない程度に枠の外に出る」なんて離れ業をしたりしますね。

そんな人を見ると、とてつもない不快感を感じていました。

 

そして、「常識という枠から完全に外れた人」に待つ「完全な孤立」という姿には恐怖を感じていました。

だから僕は、完全な孤立をしない為、常識を知る為の努力をしました。

「この場面では、こうするのが常識なんだ。」

「こういう行動をするのが常識なんだ。」

そう学び、孤立を避ける為に常識に従います。

ですが、とても息苦しい生き方でしたね。

 

昔の僕は「自分がどう生きたいのか?」なんてことを知らないし、考えもしませんでした。

多分、「上手く枠から外れられる人」は、その辺が明確なんじゃないかと思います。

「自分はこう生きたい。」

「だから、そんな常識なんざ知ったこっちゃねえ!」

みたいな。

 

実際、「自分はこんな生き方をしたい。」と、明確になった今。

僕自身は「常識から外れた行動をしている」と認識しているのですが、孤立はしていないと感じています。

それは、「常識とは、ただの多数派である。」という考えになったからではないかと感じています。

「大多数の人はこうするよね。」

「こうするのが常識だよね。」

でも、自分の生き方に合わないのなら、「守らない」って選択もあるよね。

そう考えられる様になりました。

 

今の僕は、就職もせず、良い年こいて結婚もせず、親孝行のカケラもない生き方をしています。

昔は「そうせざるを得なかった」のですが、今は自分で選択した生き方です。

僕の「行動」が変わった訳ではなくて、「見方」が変わっただけです。

それだけで、とても生きやすくなりました。

 

常識に縛られていた昔は息苦しかったです。

「常識ではこうすべきだ。」

「息苦しい。」

「常識通りに出来ない自分が情けない。」

そう思いながらも「常識と言われるモノ」を学び続けました。

結果としては、「良い学び」だと感じています。

 

僕は以前、職場の上司に言われ、嬉しかった言葉があります。

「チッタは、ヤバい奴の皮を被った常識人。」

僕はこの言葉を「大多数ではないけど、完全に外れた人間でもないよね。」と受け取っています。

コレは「常識を知っている」、その上で「自分が生きたい生き方が明確になっている」というバランスが取れている証拠だと感じました。

常識を学んだ過去は、確実に僕の糧になってくれました。

 

最近では、「常識」が良くないモノ、カッコ悪いモノみたいな風潮がある様に思います。

確かに、「常識でガチガチに固められるのは如何なモノかな。」とは思います。

ですが、そこまで悪いモノでもないと感じています。

まぁ、「常識の押し付け」はウゼぇですけどね。

結局は、「その人の見方」なのだと思います。

僕は「ただの多数派」だと考えています。

常識の全てを守る必要はないけれど、全くの無視は、それはそれで「僕にとっては都合が悪い。」と感じています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です