「自分には生きている価値がない。」
そんな事を言う人をよく見かけます。
そして、最近「こんな発言」を見かけました。
「「生きる価値がない命なんてない。」なんて言う人間は、社会的な価値がある側の人間。」
興味深いなと思いました。
なので、僕なりの意見をまとめてみようと思います。
目次
価値がなくては、生きていてはいけない。
「自分には生きている価値がない。」
この発言には色んな思いが詰まっているんだと思います。
本当に「自分には価値がない。」と感じているのか、又は「そんな事はないと否定してほしい。」という思いなのか。
それは人それぞれだと思います。
全然悪いことではないと思いますよ。
「思う事」や「感じる事」自体に良いも悪いもありませんから。
ただ、「自分には生きている価値がない」と言う人の根底には、「ある価値観が根付いている」と、僕は思います。
「価値がない人間は生きていてはいけない。」
この「価値観」は、とても生きにくい価値観だと思います。
僕もそうでした。
「価値を求めて生きる」ってのは、とても疲れます。
今の僕は「何かを求めていった結果、その人に価値が生まれた」という生き方の方が健全だと考えます。
まぁ、「価値観を変えろ!」と言っている訳じゃないし、人から何かを言われても急には変わらないのが価値観だと思います。
ただ、自分が「なぜ、その価値観を持っているのか?」「なぜ、その考え方が根付いているのか?」を考えるのは、自分自身を知る良い機会になります。
僕も昔は「みんなが羨ましがる生活(生き方)をしたい!」と、自分の「能力以上の価値」や、自分が「望む以外の価値」にまで手を伸ばそうとしていました。
「そんな生き方」に疲れました。
自分の価値観や考え方に、自分自身が疲れてしまったんです。
疲れは怒りやイラ立ちに変わりました。
ですが、自分では何に怒りを感じて、何にイラ立っているのかもわからないんです。
僕は自分が嫌いになりました。
だから「自分が何に怒り、何にイラ立つのか?」を探し、考えました。
考えた先に、「価値がなくては、生きていてはいけない」という価値観が根付いていた事に気付きました。
家庭環境によって根付いた価値観。
僕の「価値がなくては、生きてはいけない」という価値観は、育った家庭環境によって根付いたモノだと考えています。
ザックリ言うと、僕は「あの家」で、「良い子(価値のある子)でなくては、居場所が与えられなかった(居てはいけなかった)」んです。
僕の母にとって、「良い子」という存在はとても価値のあるモノでした。
「良い子」というのは、「僕の母にとって都合が良い子」という意味です。
そして僕は母に「良い子」になる教育をされました。
僕は「あるがまま」に育って「良い子」になった訳じゃありません。
「あるがままではない」から不安になりました。
作られた「良い子」だった僕は怖かったんです。
「良い子じゃなければ、母に見捨てられる。」と。
僕は不安や恐怖から、無理矢理「良い子」になろうとしました。
△に◯を無理矢理ハメれば形を歪める様に、僕の心も歪んでいきます。
僕は「良い子であること」を「価値」と捉え、「母に見捨てられること」を「死」と捉える様になりました。
僕は母に見捨てられたくなかったし、僕のことを価値ある人間だと感じて欲しかった。
「その思い」が歪み、いつの間にか「価値がなくては、生きてはいけない。」という価値観が根付きました。
「呪い」の様なモノです。
「もっと頑張れ」
「そんなんじゃ見捨てられるぞ?」
みたいに、「自分を縛り付ける何か」が頭の中にいる感じです。
おそらく、「自分には生きている価値がない」と言う人も、僕と同じなのではないでしょうか?
(親にとっての都合が)良い子であることを求められ続けた。
(親にとっての)価値がある人間になる様に求められ続けた。
親(家族)の心を埋める為に利用され、あるがままの自分を認めてもらえないまま育ったんじゃないかと思います。
「生きる価値がない命なんてない」と言える人。
「生きる価値がない命なんてない」と、本心で言える人というのも、「家庭環境からの価値観」だと思います。
あくまで僕の解釈ですが、「この人」は「後から価値が付いてくる派」だと感じます。
「働いてなくても、親のスネをかじっていても、国に頼り切っていても、その人が生きていれば、それだけで価値が付いてくる」と、考えているのではないかと推測します。
多分おそらくきっと、「あるがまま」でいることを許されて育ったんだと思います。
「その人が育った家庭」はRPGゲームで言う「セーブポイント」や「宿屋」の様に、安心感で満ちた場所だったのでしょう。
「この人」は、「あるがまま生きること」が当たり前であるという「価値観」が根付いているのだと思います。
「自分はあるがままに生きればいい。」
「価値なんて、後から勝手に付いてくる。」
「だから、生きる価値がない命なんてない」と言えるのではないかと推測します。
社会的な価値がある側の人間。
「「生きる価値がない命なんてない」と言う人間は、社会的な価値がある側の人間」という意見について。
当たり前だと思いますw
まぁ、当たり前ではないかもしれませんが、「こういう価値観を持った人間」というのは、「高確率で社会的な価値を持つ立場」に立てると思います。
何故なら、「挑戦出来る人である可能性が高いから」です。
元々のスペックは置いておいて、人は挑戦することで能力を伸ばせます。
挑戦して、失敗して、改善点を見つけて、また挑戦して…。
そりゃあ、幼い頃から「挑戦」や「失敗」を繰り返していけば、「社会的な価値のある人間」にもなれますよ。
自分よりも「社会的な価値がある人」を見ると、元のスペックと言うか、才能ばかりに目がいってしまうモノです。
ですが、「社会的な価値がある人」には、確実に「挑戦」と「失敗」の過程を経験しています。
そもそも「挑戦」をしなければ、どれだけスペックが高かろうが、才能があろうが、「社会的」な価値なんて持ちようがありません。
僕は「社会的なある側の人間」だから「生きる価値がない命なんてない」と言えるんじゃないと思います。
「生きる価値がない命なんてない」という価値観を持った人間は、高確率で「社会的な価値を持てる」んだと感じます。
安心と挑戦。
突然ですが、「挑戦」には「不安」が付き物だと思います。
例えば、保育園(幼稚園)で、初めて同じ年頃の人に関わろうとしますよね。
「それ」だって挑戦です。
「あの子に話しかけてみよう」(挑戦)
「でも、拒絶されるかもしれない」(不安)
他にも、
「部活に入ろう」(挑戦)
「怖い先輩がいたらどうしよう」(不安)
「あの学校を受験しよう」(挑戦)
「落ちたらどうしよう」(不安)
こんな風に、挑戦と不安がセットになっている人は多いんじゃないかと思います。
不安を想像してしまうと、挑戦がオックウになってしまいますよね。
しかし、世の中「コイツ、不安とか感じないんか?」と思う様な人がいます。
「そんな人」には、「あるがままに生きればいい」という価値観を持つ人が多いと感じます。
「そんな人」には、RPGゲームで言う「セーブポイント」や「宿屋」がちゃんとあるんだと思います。
ボス戦前にセーブしておけば、「まぁ、全滅してもやり直せるし。」という安心感が出来ます。
消耗したパーティーを宿屋で回復させれば、「じゃあ、次のダンジョンに行くか!」と挑戦出来ます。
そういう「安心感のある場所」や「気力を回復する場所」を持っているんだと思います。
そして、その「安心感があり、気力を蓄えられる場所」が「その人の実家」なんじゃないでしょうか。
「失敗したって良い。失敗したら、ウチに帰って来れば良いじゃない。」と、言葉と行動が伴っている親がいたら。
「会社(学校)は疲れる。だけど、実家に帰れば元気になれる。」と、身も心も癒せる実家だったら。
そんなモンを産まれた時から持っていたら、そりゃあいくらでも挑戦出来るわなw
実家で「消耗」する人、実家で「回復」する人。
「親ガチャ」って言葉が流行りましたよね。
僕はあまり好きな言葉じゃないんですが、あえて引き合いに出そうと思います。
「悪い親ガチャ」にも色んなケースがあると思います。
虐待、毒親、経済面、と様々です。
しかし「良い親ガチャ」では、どうも「経済面」ばかりが取り上げられている気がします。
僕が思う「良い親ガチャ」は、「回復する実家を提供してくれる親」です。
別に「家の構造」の話をしているんじゃありません。
モチロン、「ある程度の経済力」は必要だと思います。
それよりも安心感。
「実家に帰れば、自分がダメでもボロボロになっても受け入れたくれる家族がいる。」
そんな実家だったら、いくらでも挑戦出来そうな気がします。
トコロが、「居るだけで自分が消耗する実家を提供する親」だった場合は、悲惨そのものです。
家に帰れば毒を浴びせられ、「もっと努力しろ」「もっと成果を出せ」と言われれば、消耗しかしませんよね。
外に出れば消耗し、家に帰っても消耗する。
「こんな人」は、どこで回復すればいいのでしょう。
毒を浴びせられる様な家庭で育った人は、「あるがままに」なんて生きられないと思います。
常に成功し、常に価値を作り続けなければ、居場所なんてないのだと。
「失敗したって良い」なんて安心感はないですよね。
セーブポイントはありません。
宿屋もありません。
だから、消耗し切った状態で、ダンジョンやボスに挑みます。
緊張感ハンパないですよね。
そんな人の「失敗」は、すなわち「終わり」です。
「自分には生きている価値がない」と言う人は、セーブポイントも宿屋も持たず、「あるがままで生きる」ことも許されず、頑張って、疲弊しきった人なのだと感じます。
「生きている価値がない」と言う人へ。
僕は、「そんなことはないよ」とは言えません。
だいたい、僕に言ってもらえたトコロで、根本的な解決にはなりませんからね。
そりゃあ、自分の価値を肯定してもらえれば、「その時」は嬉しいと思います。
ですが、すぐにまた不安や焦燥感に襲われると思います。
ですので、「あなたの心の底にいる、価値を認めて欲しい人はだれですか?」を考えて欲しいと思います。
結局のトコロ、社会や恋人や友達なんかに価値を認められても、「心の底にいる、価値を認めて欲しい人」がわからなければ解消しない問題なんだと思います。
僕の「心の底にいる、価値を認めて欲しい人」は、僕の母でした。
僕は母に助けて欲しかったんです。
僕に価値があれば、母は僕を見てくれる。
僕を見れば、僕が傷付いていることをわかってくれる。
そして、助けてくれる。と。
僕は母に「助けて欲しかった事」に気付きました。
母に僕を「本当の意味で」見て欲しくて、「母が求める僕の価値」を求め続けました。
「母が求める僕の価値」は「僕の思う価値」とは別モノで、自分がどれ程歪んでいったのかに気付きました。
他者に母を重ね、無意味に頑張っていた事に気付きました。
そして、「心の底にいる、価値を認めて欲しい人」は、僕の前にいない事に気付きました。
もうね、アホらしくなりましたよw
僕は「価値がなくては、生きてはいけない」と、自分で思っていました。
今ではアホらしいと思います。
「誰に価値を見せたいんだよw」と。
「生きている価値がない」と言う人には、色んな思いや問題があると思います。
問題解消に向ける気力すら無いんだと思います。
かなりの長期戦です。
しかも残酷な事に、自分が納得出来る結果が来るとも限らないと思います。
ただ、「生きている価値がない」と言うって事は、自分で足掻こうとしている結果だと思います。
足掻こうにも、突破口が見えないでいるのなら、まずは「誰に価値を見せたいのか?」を明確にする事は無駄ではないと思います。
とてもよくわかる話だね。
うちは親父が公務員だったから、経済的には殆ど不自由なかったけど、家庭での安心は全く出来なかった。世間的には恵まれていると思われがちだが、内情は悲惨な部分も多く、見事に毒まみれ。
大人になってから、友達の家に行き親に会うと、家庭が回復場所になっている友達が多いこと多いこと。目から鱗。
そんな自分も親に価値を認めてほしくてあがき、ここ数年で親に認めてもらうことは諦めましたとさ。
色々な家庭があるよね〜ほんと。
育った家庭って、外からじゃ見えないもんね。
経済的には安定していた、だけど家の中は毒まみれ。
そんな家庭も多いんだろうなって思う。
多分「生きてる価値がない」なんて言う人は、なんらかの毒の中で育ったんだと思う。
もちろん、その人の人生は育った家庭が全てではないけれど、間違いなくなく、その人の土台にはなる。
外から見た情報だけで、「金持ち家庭で育ったのに、何が不満?」みたいな事は言っちゃあいかんね。
昔の俺なら言ってたと思う。
回復出来る家に生まれた人の人生をヌルゲーと言う気はないけど、疲弊する家で育った人の人生はマゾゲーだと思うよホント。
そもそも、親に価値認めてもらいたいって発想が切ないね。