僕の人生は、大きく分けて4つの段階がある。
- 虐待を受けていた子供時代。←イマココ
- 家族に振り回された20代。
- 生きづらさにもがき苦しんだ20代後半から30代前半。
- 割とへらへら生きられている今。
細かい時期関係に誤りがあるかもだけど、大体こんな感じだ。
前回の家庭崩壊時代の終わり。にて、ようやく「虐待を受けていた子供時代」を話し終えたといったトコロ。
次に「家族に振り回された20代」の話を書いていこうと思うのだけど、ここで一旦、「チッタの子供時代」をまとめておこうと思います。
ついでに「虐待を受けて育った僕」の思うトコロを話してみようと思うので、よかったらお付き合い下さい。
目次
東京時代
不安と恐怖の記憶。
僕の幼少期は、既に「不安と恐怖」の中にあった。
「母に必要とされていないんじゃないか?」という不安。
そして、僕に対する「兄の憎しみに満ちた顔」の恐怖。
そんな中で、僕は「母の愛情」を求めて行動していた様に思う。
しかしながら、そんな昔のことを正確に覚えているとは言い難い。
僕の「記憶違い」かも知れないし、僕が都合よく「記憶を捻じ曲げた」可能性だってある。
だけど僕には、母に「ひとりで置いていかれる不安」と、兄に「危害を加えられる恐怖」という感情は、今でも残っている。
家族以外のコミュニティ。
僕は「年下や同い年の人」と接するよりも、「年上の人」と接する方が楽だ。
学生時代や20代の頃は、その特性が色濃くあった。
今でもそうだ。
職場の同世代の人達より、同じく職場のお爺達とワチャワチャやって楽しんでいる。
そんな僕の特性の土台は、この頃に作られたんだと思う。
20代の頃なんかは「年下が苦手。」なんて、よく分からない苦手意識があった。
「苦手意識」は言葉が良すぎるな。
正直、根拠なく見下していた。
だけど、「年上と接する方が楽」という特性のおかげで上手くやれた事もあり、当時の兄ちゃん達や、兄の友人達から優しくしてもらえたら事を感謝している。
そして、僕が根拠なく見下してきた「同級生」や「僕より年下の人」達には、今更に申し訳なく思う。
手のかからない子供。
「チッタは本当に手のかからない良い子だったよ。」
僕は母から、そんな「お褒めの言葉」を頂いた。
「言葉だけ」を目にするなら、特に問題なく、むしろ幸福な情景にすら感じる。
けれど今思えば、「チッタは手のかからない良い子」という言葉は、「僕のツラかった日々や生きにくさを凝縮された言葉」にしか思えない。
母にとっての「良い子」と「悪い子」。
「良い子=チッタ」「悪い子=兄」という構図が出来てしまっていた様に思う。
少し酷な言い方になるけれど、母が言う「良い子」というのは、「母にとって都合の良い子」という事なんだろう。
僕の赤ん坊時代の特性が、たまたま「母の都合の良さ」に当てはまった。
だから僕の赤ん坊時代は母に叱られる事もなく、「母の愛情」を感じ、受け取れたのだろう。
しかし、それによって兄は僕を憎み、兄自身もツラい思いをしていたのだろう。
僕自身も「良い子でいなければ。」と、自身を縛り付ける様になった。
「アダルトチルドレン」の兆し。
僕が「良い子でいなきゃ!」と、意識して優等生であろうとし始めたのは、小学生になろうかというこの時期からだろう。
まぁ、それ以前にも「兄のご機嫌取り」なんかをしていた訳だから、「意識した」というより「盲信的になった」と言うべきかも知れない。
この頃には、僕の中で「母からの愛情=見返り」という構図が出来てしまったんだと感じる。
「チッタは良い子だね。」
母にそう言われると、僕は凄く嬉しかった。
だけど同時に「良い子じゃなければ愛してもらえない。」と、無意識に感じていたんだと思う。
そう感じてしまったのは、「放置癖のある母」や「兄優先の我が家の体質」なんかが要因なんだと思う。
多分、「愛情の様なモノ」で「満たされた。」と勘違いしていたんだろう。
僕は何をしても、何をしなくても与えられる「無償の愛情」が欲しかったんだ。
そんな「無性の愛情」はもらう事が出来なかった。
だから僕は愛情に飢えて、良い子になり、母の愛情を得ようとした。
たまたま僕は「良い子風」でいる事が出来た。
だから当時は上手くいっているかに見えた。
だけど、「良い子風」なんてモノはマヤカシで、その反動が大人になるに連れて姿を見せる様になった。
さよなら東京。
まず、この事は伝えておこうと思う。
僕は肥満だった。
その事は「要因のひとつ」に過ぎないのだけど、僕は「喘息で入院」する事になった。
まぁ、それは良い。
問題は、「僕の入院以前」から県外への引越しが決まっていて、「いざ退院と同時」に事後報告で引越しを知らされた点だ。
心の準備もあったモンじゃない。
僕の両親は昔からそうだ。
「チッタなら言いくるめ出来る。」と思っていたかは知らないが、重要事項をギリギリまで僕に隠す傾向がある。
その心の傷は深く、今も深く根を張っている。
職場なんかでの伝達ミスで、「僕に情報が降りない事にイラ立つ」のは、この傷が未消化な為だろう。
しかし、そんな僕の不満は無視されつつ、僕は東京を去る事になる。
そして、「東京を去る事」について、僕以上に不満や怒りを抱えたのは兄だった。
小学生時代。
新たな土地での生活。
東京の地を離れ、新しい土地での生活が始まった。
とは言っても、「東京での生活」よりも「新たな土地での生活」の方が、僕の人生においては馴染み深い。
この「新たな土地での生活。」からが、この「あの家で育った僕は、変わり者になった。」の本編と言えるだろう。
それはさて置き、僕もそれなりに「新しい生活」に不安や戸惑いがあった。
県外に出ただけで、「それまでの常識」だったり、「馴染みがあった遊び」なんかが全然違う。
初めて接する文化に順応していくには、そこそこの労力や心労を必要とした事の記憶が濃く残っている。
まぁ、それでも僕は、それなりに早く順応出来たと思う。
たまたま近い位置に「良い人達」が居てくれた事に、感謝している。
特に、引越し先の極近所に住んでいた「幼馴染」との出会いは、僕の人生にとても大きな影響を与えた。
「あの人との出会いがなかったら、自分の人生はどうなっていただろう?」
大多数の人にも、「こう思う」経験があると思うのだけど、「幼馴染」が僕の人生に与えた影響はデカい。
兄が僕に「悪い影響を与えた」なら、幼馴染は僕に「良い影響を与えた」人物だ。
そんな幼馴染に出会ったのが、僕が小学1年生のこの時期だ。
兄弟間の不平等。
上手いこと、新しい土地での生活に順応出来た僕だった。
だけど、兄はそう上手く順応出来なかった様だ。
兄は元々なのか、幼少期の親子関係の不遇からか、「人付き合い」が下手だ。
そんな兄は、新しい土地での「1からの人間関係の構築」に手間取っていた様子だ。
両親(特に母)は「引越し」という、「それまで兄が培ってきた人間関係の初期化」に対して負い目を感じていた様子だった。
兄の精神はとても不安定になり、「兄へのフォロー」という名目で「あの家」は完全に「兄優先の家庭」になった。
不安定になった兄は、当然、僕への当たりも強いモノになる。
僕だって、新たな土地での心労が多少なりともあった。
そこに加えられた、「不安定な兄」に対する心労。
しかし「あの家」で優遇されたのは、兄ばかりだった。
まぁ、僕の被害妄想な部分もあるのだろうけれど、少なくとも僕は「そう」感じ、受け取った。
両親に見えていないトコロで、僕自身にも見えていないトコロで、着実に僕の不満は募っていった。
チッタを溺愛する父。
父は僕の事を溺愛していた。
それは、引越し後に顕著に現れた。
先程、「兄ばかり優遇された。」と言ったばかりで矛盾を感じると思う。
そう感じたのは、兄も同じだったんだろう。
兄が僕の抱えた「兄ばかり優遇された。」という不満を感じ取ったかは分からない。
だけど、兄の方も「チッタばかりが愛されている。」と、不満を募らせたのは間違いないだろう。
僕は以前、「自分こそが、あの家で不遇な扱いを受けた!」と思っていたのだけど、客観視してみればドッコイドッコイな環境だったんだと感じる。
僕だけが不遇な訳ではなかったし、兄だけが優遇された訳でもなかった。
こういう客観視する為にも、やはり「書き起こす」という行為はとても有効だと感じる。
家庭崩壊時代。
平穏だった我が家。
「あの家」の家庭崩壊が始まる直前の話。
「あの家」は狂っていた時期の方が長いのだけど、そんな「あの家」にも平穏な時期というモノがあった。
兄の同級生でもある幼馴染のおかげで、兄はなんとか新しい土地でも友達が出来た。
兄の精神状態は落ち着きだし、僕への当たりも弱いモノになっていった。
この時期の両親の夫婦仲も良好だった様に思う。
父は家計を支え、母は家庭を支え。
父が飲食店で働いていた為、「家族で出かける」という機会は少なかったけれど、僕や兄の学校が長期休暇に入ると、みんなで出かける事もあった。
この時期辺りには、僕達に新しい家族が出来た。
猫だ。
説明の必要が無いと思うけれど、あの堪らなく可愛い生き物が、僕達の新しい家族として迎えられた。
兄に対する心労が無かった訳じゃなかった。
だけど、「あの家」があんなに平穏だったのは、あの短い一時期だけだった。
そうなのよ。
平穏だったのは一時期だけだったのよね。
そのすぐ後から、僕の日常は地獄と化した。
唐突に始まった兄の暴力。
僕が小学3年生。
そして、兄が中学生になってから少し経った頃だ。
兄は、僕に「本格的な暴力」を振い始めた。
それ以前も暴力自体は普通にあった。
「本格的」ってのは、2〜3発程度の暴力では終わらなかったという意味。
「僕が動けなくなるまで止まない暴力」が始まったんだ。
まぁ、時には「動けなくなっても蹴りが飛んでくる。」なんて事もあったのだけど。
とにかく、そんな「本格的な暴力」が日常化し出したのがこの時期だ。
この時期に始まったのには、色々と理由があるのだけど、大きな理由は2つだと考えている。
- 母がパートで働き出した。
- 兄の中学校生活が上手くいかなかった。
そんなトコロだ。
因み、僕の人生で1番ツラかったのがこの頃の話だ。
番外編 「あの日の暴力」の考察。
唐突に降りかかった兄からの暴力。
とんでもなく激しく、怖く、僕は成す術も無ければ、「なぜ、こんな目に。」と考える事すら出来なかった。
そんな「あの日の暴力」を、「兄の視点」で考察してみた話。
色々と思い返す事が出来たし、見えてきた部分もあった。
本編とは関係ない話になったけれど、中々面白いモノになったと思ってます。
良かった覗いてみて下さい。
アルコールに溺れた父。
「兄からの暴力」が日常化した少し後。
今度は父に異変が出てきた。
父はお酒が大好きだった。
それは、もっと以前からの事だった。
この頃から、父は「酒好き」から「アルコール依存症」にランクアップしたのだろうと感じる。
「ただの酒好き」ならば、お酒を飲んだら「酔っ払った〜。」で済むだろう。
だけど、この頃の父は「酔っ払った〜。」では済まない支障が出始めたんだ。
古い言い方をすれば「アル中」という言葉が当てはまる。
そんな父は、職を失い、生活も酷いモノとなった。
そして、「父のアルコール依存」は、家庭すらも壊し始めた。
「あの家」の家庭崩壊の始まりである。
殴られるのは、チッタが悪いから。
兄が「自分の暴力を正当化」し始めたのがこの時期だ。
僕は既に「恐怖と痛み」による洗脳が済まされていた。
この頃には、「兄に歯向かう」「兄の命令に背く」なんて事を考える事すらもやめていた。
まぁ、僕なりにリスクヘッジはしていたのだけどね。
しかし、兄は「それだけ」では満足しなかった様だ。
徹底して僕のアラ探しをし、僕に突きつけた。
「殴られるのは、チッタが悪いんだからな。」と。
テーマは「罪悪感」。
厄介ですねー、罪悪感ってのは。
順調に進む家庭崩壊の中で。
兄からの暴力が日常化し、更に「罪悪感」という負荷が加わった。
その頃の僕は、「兄からの暴力」と「家庭崩壊(父のアルコール依存)」という2つの負荷がのし掛かっていた。
兄からの暴力だけでも手一杯な僕だったのだけど、父の方も手を緩めてはくれない。
父のアルコール依存は酷くなる一方で、収入源は母に頼るしかない状況になっていた。
母からすれば「父(夫)のアルコール依存」「兄(息子)の精神状態の不安定」「家計」の心労が大きく重くのし掛かる。
そんな母は不倫をした。
そして、父と兄に不倫がバレた。
当然ながら、両親の夫婦仲は険悪になる。
もう、「あの家」の家庭崩壊は歯止めが効かない状態になってしまった。
最後の、ギリギリで支えられていた最後の細い糸が切れてしまった感覚。
正に「破綻」という言葉が相応しいと感じる。
それから父は「僕の家族で初めての自殺未遂」をした。
そして兄は、僕からお金を巻き上げる様になり、暴力の矛先を父に向け始めた。
家庭崩壊の終わり。
僕は中学生になり、兄は高校生になった頃。
僕は父に暴力を振るう様になった。
初めは「母と取っ組み合ってる父を引き剥がす為」という名目だった。
しかし徐々に、「酔って暴れる父を止める為」の暴力に変わっていく。
「父を止める」と言うと聞こえが良いけれど、要は「父を支配(コントロール)する為の暴力」だ。
暴力ってのは、言葉よりも手っ取り早かった。
僕は「兄が僕にした」様に、「同じ事を父にした」だけだったんだ。
その一方で、「兄による父への暴力」も激しさを増していく。
兄は、マジで人が死にかねない事を平気で父に行った。
これには母も僕もドン引きだ。
僕と兄は、父が働かなくなり、酒浸りになった辺りから、母に何度も離婚を強要してきた。
母は離婚について「聞く耳持たず」といった感じだったが、ドン引く様な兄の暴力を目の当たりにし、考えを改めた。
ここでようやく両親の離婚が決まり、「あの家の家庭崩壊」に幕が降りる事となった。
しかし、「兄の暴力」が「家庭崩壊を終わらせた」というのは、なんとも皮肉な話だと思う。
子供時代を振り返って。
僕が子供時代を振り返えるのは、大きく分けて2度目だ。
20代半ばから後半頃に、「初めての過去の振り返り」をした。
そして今現在、ブログを書くために「2度目の過去の振り返り」をしている事になる。
今回は「初めての過去の振り返り」をした頃の話を交えて、改めて振り返ってみようと思う。
霞んでしまった「家庭以外」の記憶。
「僕の子供時代」にだって、色んな出来事や思い出があったはずだ。
学校生活の事。
友達との思い出。
十数年生きていれば、他にも色々な出来事がある。
だけど、僕には「それら」の記憶がとても薄かった。
「それら」の記憶が霞んでしまう程に、「家庭」の記憶が強烈に記憶に残っていた。
僕にとっての「家庭」の記憶。
つまりは「あの家」での記憶なんだけど、やはり「良い記憶」というモノが少なかった。
「あの家」にだって、「良い記憶」は少ないながらもあった。
しかし、そんな「良い記憶」も、「あの家」での強烈な「悪い記憶」によって霞んでしまっていた。
霞んでしまった「父と母」の記憶。
僕にとっての家族の印象は、
- 兄=暴力、又は恐怖の対象。
- 父=アルコール依存、家庭崩壊の引き金を引いた人。
- 母=家を支えてくれたけど、不倫によって家庭崩壊を修正不可能にした人。
そんな印象だった。
この中でも、特に強い印象があるのが「兄」との記憶だ。
「兄からの暴力と支配」は、他の記憶を寄せ付けない程に強烈な印象を僕に与えた。
僕にとって、「兄との記憶」を前にすれば、「父のアルコール依存」や「母の不倫」、もっと言えば「家庭崩壊」ですらも大した印象与えていなかった。
それくらいに「兄との記憶」は、僕にとって強烈な印象を与えたんだ。
「父との記憶」や「母との記憶」に然程の印象が残っていなかった僕は、こう思っていた。
「印象が残らないって事は、僕にとって大した事じゃなかったんだろう。」
しかし、それは大きな間違いだった。
霞んでしまった心の傷。
僕は20代の頃、「兄から受けた心の傷」の存在には、なんとなく気付いていた。
そして、「兄から受けた心の傷」だけが「僕が負った傷の全て」だと勘違いしていたんだ。
「兄から受けた心の傷」ってのは、僕にとって分かりやすい傷だった。
大きく深い傷だったし、強烈な印象が残っていた。
だから僕には「父から受けた心の傷」や「母から受けた心の傷」に気付く事が出来なかったんだ。
「兄から受けた心の傷」は、「大型トラックに撥ね飛ばされた様な傷」だった。
だから僕には「父から受けた心の傷」や「母から受けた心の傷」が、「転んで出来たスリ傷」程度に感じていたんだろう。
しかし、それは「兄から受けた心の傷」の印象が強すぎて霞んでしまっていただけだった。
本当の「父や母から受けた心の傷」は、「スリ傷程度」なんかではなく、「金属バットでブン殴られた様な傷」程に大きく深い傷だったんだ。
その事に気付いていなかった僕は、とても苦しんでいた。
僕が「本当の自身の傷」に気付くまで、長く苦しい時間が必要だった。
霞んでしまった「家族」の記憶。
僕が「本当の自身の傷」に気付いた同時期、「霞んでしまって家族の記憶」というモノに気付いた。
正確に言うと、「見えなくなっていた、見ない様に蓋をした」記憶だ。
僕の中での「家族の記憶」というのは「マイナスイメージ」が強烈に印象に残っていた。
「その強い印象」が「霞ませて見えなくなっていた記憶」というモノがあったんだ。
そして、「見てしまうと都合が悪い為に蓋をした記憶」というモノもあったんだ。
その「見えなくなっていた、見えない様に蓋をした」記憶というモノも、僕が抱えた「言葉に出来ないドス黒い不快感」の要因でもあった。
御託は置いておいて、「見えない、見ない様にしていた記憶」を紹介してみよう。
- 兄=僕だけが被害者ではなく、兄も被害者であり、僕も加害者であった。
- 父=僕を溺愛してくれていたし、僕も大好きだった。
- 母=母も大変だったけど、僕だって「僕が望む愛情」が欲しかった。
こんなトコロだろうか。
こういった「事実」や「気持ち」が見えていなかったり、見ない様に蓋をしていた。
僕は、
- 兄は絶対悪で、加害者でいて欲しかった。
- 父は「あの家」をブチ壊したダメ人間でいて欲しかった。
- 母は不倫という過ちを犯したけれど、「良い母親」でいて欲しかった。
この事に気付いただけで、僕の心は楽になったし、僕の課題も見えてくる様になった。
最後に。
今回のまとめで、「虐待を受けていた子供時代」の話が終わります。
続いて「家族に振り回された20代」の話に入ろうと思います。
の、前に。
「虐待を受けて育った僕の思うトコロ」の話をしたい!!
のですが、長くなったんで、一度区切ります。
良かったら覗いてみて下さい!!