東京から引っ越し、「新たな土地」「新たな学校」での生活が始まった。
僕は戸惑いもありつつ、なんとか新しい環境に順応した。
兄も時間がかかったが、新しい環境に順応しつつあった。
しかし、それでも兄が抱えたストレスは大きく、精神的に不安定になっていた様だ。
そんな兄に、両親(特に母)は罪悪感を感じたのか、兄のケアに勤しむ様になる。
そしていつの間にか、我が家は「兄優先」で事が進む様になった。
その事は僕にとって、凄く「不平等」に感じた。
この「兄弟間の不平等」は、僕の心を歪める大きな要因になった。
目次
不平等な魚釣り。
所有物を巡る不平等。
引っ越した年の夏休みが終わり、2学期が始まった辺りだろうか。
この頃の兄は「今回の引っ越し」についての不満を募らせている真っ最中だった。
そんな兄を気遣ってか、母は学校の休日に僕と兄を遊びに連れていってくれた。
当時の兄は「釣り」に興味があったらしく、週末は3人で釣りに出かける事が多かった。
ここで重要な点がある。
「釣り竿」は、「兄が買ってもらったワンセットのみ」だ。
当然僕は、母に「チッタにも釣り竿買ってよ!」と抗議する。
しかし、返ってくる答えはこうだ。
カーさん「ニーちゃんに貸して貰いなさい。」
チッタ「……。」
母にとっては「兄弟共有の釣り竿」なんだろうが、「僕と兄の間」には「共有」なんて事にはならない。
基本的に「兄の所有物」になる。
つまり、「兄の所有物(釣り竿)」を「僕が借りる」という流れになる。
兄の独占欲は凄まじい。
兄が自分の所有物を僕に貸すわけがない。
仮に、本当に仮に、兄の釣り竿を借りたとしよう。
そんな大事な物に傷でも付けようモノなら…。
いや、兄なら「兄が自分で付けた傷」すらも僕のせいにするだろう。
そんな「おっかねえ物」には触れたくもなかった。
母は「兄弟間で平等になる様に共有物を買い与えたつもり」だったのかも知れない。
だけど、結果的には「共有物」ではなく「兄の所有物」になるだけだった。
「ニーさんの所有物を借りるくらいなら…。」
その形は「諦め」だったけれど、僕の感じた「不平等感」は「不満という形」で積もっていった。
僕は悪い子。
僕は早々に「魚釣り」を諦めた。
諦めて、「兄の魚釣り姿」を眺めていた。
しかし、母、兄、僕の3人共、「釣りの知識」は一切無い。
当然、魚が釣れるわけもなく、「魚が釣れない兄の魚釣り姿」は退屈以外の何者でもない。
だから僕は、その辺の石コロを眺める事にした。
「趣味 ひとり遊び」な僕は、石コロさえあれば満足出来たんだ。
結構面白いよ!!
しかし、兄は「そんな事」を許してはくれない。
「石コロ眺め」に夢中な僕に、兄は言った。
ニーさん「チッタ、お前も釣りしろ!」
チッタ「え?竿貸してくれるの!?」
ニーさん「(釣りする姿を)見てろ!!」
チッタ「…。」
「石ころを眺める事」すらも、兄は許してはくれない。
釣り竿も持てない。
石ころを眺める事も許されない。
流石の僕も、「帰りたい!」と駄々を捏ね始める。
カーさん「チッタ!ワガママ言わないで!!」
僕は母に叱られた。
とんでもなく「悲しい気持ち」になったのを覚えている。
「僕だって釣り竿を持ちたい。」
「だけど、我慢して石コロを眺めてる。」
「ニーさんは、それすらも許してくれない。」
「釣り竿もダメ。石コロもダメ。」
「ニーさんの方がワガママなんじゃないのか!?」
「こんなん、つまんねーから帰りたいと言った。」
「そしたら叱られた。」
「ニーさんのワガママは叱らないのに。」
「こんなの不平等だ!!」という怒りがあった。
だけど、「カーさんを怒らせてしまった。」という「悲しい気持ち」の方が強く残った。
「カーさんを怒らせてしまった。」
「僕が我慢して付き合わなくてはイケナイ場面だったんだ。」
「カーさんを怒らせた僕は、悪い子だ。」
僕は、そう受け取った。
不平等な食卓。
「偏食家」な兄。
家族と言えど、「食の好み」はそれぞれ違う。
他の家庭の事は知らないが、我が家の食事は「みんなが同じ物」を食べた。
そうなると、ワガママを言い出す人間が出てくる。
まぁ、兄の事だ。
僕はなんでも食う。
母も同じく、なんでも食う。
しかしながら、兄は「好き嫌い」が多い。
と言うか、注文が多い。
だから、「我が家の食卓」は、「兄の好物」ばかりが並ぶ事になった。
この事については、「不平等感」を感じなかった。
「兄の好物」は「僕の好物」でもあったからね!
「ひとつ」を除いては。
余談なのだけど、僕は「父の食の好み」をよく知らない。
そもそも、「父が食事をしている姿」をあまり見た事がないんだ。
父はお酒を飲む時、ツマミ(というか食品)を口にしない。
毎晩晩酌をする父は、晩飯を食べない。
朝もお茶を飲むだけだった。
ホント、あの人は何を食って生きていたんだろう。
「バグった味覚」に付き合う不平等。
さて、兄の話に戻ろう。
兄は「辛いモノ」が大好きだ。
それも、「バグった辛さ」のモノをね。
断っておくけど、僕は「辛いモノが苦手」なわけじゃない。
人並みのモノなら全然好きだ。
しかし、「辛さ」に対して、兄の味覚はバグっていた。
そんな兄にとって、「激辛じゃないカレー」はカレーじゃないらしい。
初めは母も、僕に合わせた「甘口とか中辛」のカレーを作ってくれた。
すると兄は激怒し、食事を放棄する。
「こんなモン食えねーよ。」とね。
僕としては「兄の皿」に唐辛子なんかで「辛さ調整」して欲しいのだけども…。
まぁ、兄が協調性のある行動なんて、取るわけがない。
兄のワガママに困った母。
兄の分(又は僕の分)だけ別鍋で作るとかってのが、最も正解に近いんだろう。
しかし、母はそれをしない。
いつからか我が家の「カレー」は、「兄好みの激辛カレーのみ」に変わった。
流石に今でも「そっちに合わせんの!?」となるのだけど、母も辛さには強いのが災いしたんだろう。
食い意地の張った僕は、泣きながら「激辛カレー」を食った。
当時小学1年生の僕は、「激辛カレー」の日は1時間も2時間も泣きながら口を濯ぐ羽目になる。
兄は、そんな僕を、実に満足そうに眺めていた。
僕は思った。
「コイツ、こうなる事を絶対わかって駄々捏ねてやがる!!」
何度も母に抗議したのだが、「我が家のカレー」が変わる事はなかった。
「食わない人間」に「食えない人間」が合わせるのか?と。
泣きながら唇を腫らした子供も、母には「食べられる人」に見えたらしい。
「食」に対しても「ニーさんが優先なんだな。」と不平等感を募らせながらも、僕は兄に付き合う事を強制された。
「兄優先」の家。
「兄のワガママ」は褒めてもらうチャンス。
「いつだって優先されるのはニーさんだ!!」
僕は「兄弟間の不平等」に対し、不満を募らせていた。
しかし、僕が「不満を爆発させる事」は無かった。
僕が我慢していれば、母が褒めてくれたからだ。
「釣り竿を持たない魚釣り」にも何度も付き合った。
「バグった辛さのカレー」が出てきても、「ニーさんは、この辛さしか食べないもんね…。」と、泣きながら食べた。
そうやって僕が我慢し、僕が折れれば、母が褒めてくれたんだ。
カーさん「チッタは良い子だね。」
カーさん「チッタにはいつも助けられてるね。」
その言葉が凄く嬉しかった。
「あぁ、愛されているな。必要とされてるな。」と。
兄は本当にワガママだ。
しかも、「親を試す様なワガママ」を言ったりする。
両親(特に母)は、兄のワガママに振り回されていたんだけど、当然ながら僕にも火の粉は降りかかる。
本当は我慢するのが嫌だった。
本当は折れるのが嫌だった。
だけど僕は我慢をして、いつも僕が折れた。
そうすれば、母が褒めてくれて嬉しかった。
僕はいつの間にか、「兄のワガママは褒められるチャンス」だと勘違いする様になった。
それが「勘違い」だと気付いたのは、ずぅーーーーーっと先だ。
蓄積される不満。
僕はこの、「兄弟間の不平等」が不満で仕方がなかった。
「魚釣り」や「激辛カレー」なんてのは、ほんの1例だ。
挙げればキリが無い。
少しずつ、だけど、膨大な数の不平等から、僕の不満は蓄積された。
しかし、幼い僕は、「その不満」に気付いていなかった様に思う。
それは、「我慢すれば母に褒められる」という喜びがあったからだろう。
「母からのフォロー」と言えば聞こえが良いけど、実際には「母からの呪い」になった。
母からの「お褒めの言葉」は、決して「僕の不満を解消してくれる言葉」ではなかった。
「聞こえの良い言葉」で、「僕の心の中の不満」を僕自身が聞こえなくなっていたに過ぎない。
不満は確実に蓄積していった。
いっそ、「僕の中の不満」が爆発してくれさえすれば楽だったかもしれない。
蓄積された不満は、僕の成長に伴って肥大化した。
僕が大人になる頃には、「家族関係の修復が難しくなる程」に、蓄積された不満は大きなモノになった。
更に厄介な事に、「僕が抱えた不満」は、「兄弟間での不平等」だけではない。
「あの家」では、様々な「悪い事」があった。
当然、「様々な不満」や「様々な傷」「様々な感情」が僕の中に蓄積される。
そうなりゃもう、心の中はグッチャグチャよ!
最早、「この感情は何なのか?」「この感情はどこから来たのか?」なんて事すらわからなくなっていた。
「これは不満を感じたんだな。」
「この不満は、兄弟間での不平等での不満だったんだな。」
そうやって、自分自身で把握できる様になるまで、ゲロを吐く思いもしたし、長い時間がかかった。
不平等にせざるを得なかった。
僕が「兄弟間での不平等」に不満を感じたのは確かだ。
だけど、「両親としては不平等にしたつもりはなかった」と思う。
実際、努力してくれていたと思う。
今思えば、「チッタを溺愛する父」に対する、「母の兄へのフォロー」だった様にも思う。
もうひとつ言えば、「兄が厄介過ぎて、チッタのフォローまで手が回らなかった」んだと思う。
つまり、母は「不平等にせざるを得ない」状況だったはずだ。
大人になった僕は、「その事」をわかっていたけど直視出来なかった。
「トーさんは僕を溺愛した。カーさんはニーさんに手一杯だった。」
と、あの頃の状況を直視してしまうと、
「だからって、殴られた事、心を傷付けられた事、金を出した事、裏切られた事を許さなきゃいけないのか!?」
と、「兄弟間の不平等」とは「無関係な不満や怒りや悲しみ」までもが爆発し、何を考えていたのか、本質を見失ってしまう。
逆に、「両親は手一杯だった。過去の事を子供みたいに駄々こねるのはカッコ悪い。」
こうやって、ひとつひとつ向き合わなきゃ前に進めない「感情や出来事」を直視するのを避けた。
本当は全く解消してなかったのにね。
あの頃の「あの家」では、「兄弟間での不平等」は仕方がなかった。
だけど、それでも、「あの不平等」は「両親の悪手」だったと思う。
兄はその後、「ワガママ」という言葉には収まらない程に、僕達には手に負えない「欲望のモンスター」になってしまった。
僕はと言えば、修復不可能な程に、家族から心が離れてしまった。
せめて、幼い頃から「順番ね。」と、問題と直視し、僕や兄を教育する両親であれば、ここまで拗れはしなかったじゃないかと思う。
小学生の弟に「俺を見ろ!」ってすごいよね。
色んな意味で「どんだけ〜。」ですな。
数年後、「俺を撮れ!」に変化します。