僕は「機能不全家庭」で育った。
いわゆる「一般的な家庭」ではなかった。
父は「父親」として機能していなかったし、母は僕に「自分の人生を生きる事」をさせてくれなかった。
そんな歪な家族が作った家庭だった。
種類分けするんであれば、僕の両親は「毒親」に当たるんだろう。
だけど、どうにも違和感を感じる時がある。
「本当にウチの親は毒親なんだろうか?」
そんな考えがよぎる事がある。
「なぜ毒親だと思うんだろうか?」
「なぜ違和感を感じるのだろうか?」
「結局、自分はどうしたいんだろうか?」
そんな事を考えたってお話。
毒親ってなんぞ?
わかりやすい毒親
ここ数ヶ月、Twitterをいじってみたりした。
家庭問題に苦しんできた人達の「叫び」を聞いてみたかったんだ。
まぁ、最近はやめてしまったんだけど。
さてさて、実際に毒親に苦しんでいる人達の「叫び」ってのは凄まじいモノなわけで。
そんな「叫び上げている人の親」ってのは、「凄まじい事をしている」のを感じ取れた。
「身体的」に「性的」に向けた暴力行為。
言葉による心を縛る行為。
「過干渉」による人生の束縛。
そりゃあツラいでしょ…。
とてもわかりやすい、「直接的」な毒親行為のラインナップだ。
「あなたの親は、立派(?)な毒親だ。」
「よくここまで頑張ってきたよ…。」
そう感じる「叫び」が多い。
同時に、「毒親育ち」で苦しんでいる人の多さにも驚愕した。
僕の親
僕は両親から「暴力らしい暴力」を受けた事はない。
「人格否定」なんかで心を縛る行為も受けた事もない。
「暴力」や「否定」といったモノで「直接的に」被害を受けた事はないんだ。
「そういうモノ」は兄からの受けたモノであって、親から受けたモノではない。
他にも「過干渉」された記憶もなければ、全くの「無関心」でもなかったと思う。
うーん…。
ウチの両親って「毒親」じゃないのかなぁ。
なんて言うか、「ガチ勢」や「オタク」に「自分もそれ好きなんですよ〜。」って気軽に言えない様な。
なんか、そんな感覚を感じた。
虐待
そんなこんなで、僕は自分の両親を「毒親に種類分けする事」に疑問を感じた。
しかし僕は、「両親からツラい目に会わされたのは確実だ。」という悲しい自信がある。
「それ」を言葉に表現するなら「虐待」だろう。
僕の両親は、「チカラの暴力」や「言葉の暴力」を僕に与えた事はない。
しかし、「虐待」は「暴力」が全てではない。
「ネグレクト」なんてモノは「子供に必要なモノや環境を与えない」事を指す。
日本語にすると「育児放棄」なわけだ。
僕の両親は「究極の育児放棄」である「自殺行為」をした。(兄もいるけど)
まぁ、未遂に終わったんだけどね。
しかし「コレ」は本人の意思に関係なく「虐待」だ。
そもそも「意識した虐待をしている親」って考えるのもどうなんだろうね。
他にも、僕の赤子時代には母からのネグレクトがあった節がある。
「日常的な両親のケンカ」なんてのも「精神的虐待」に当たる。
そんな話もあるんで、良かったらどうぞ↓
僕が虐待を受けていたのは間違いない様に思える。
しかし、それでも僕にはしっくり来ない。
「毒親」という言葉を使うのには何か違和感を感じる。
なぜだろう?
何に違和感を感じるのだろう?
そこで僕は少し「視点」を変えて考える事にした。
「毒親」と「僕がイメージする毒親」
「子供の人生を支配し、子供に害悪を及ぼす親」
コレが「毒親」らしい。
僕は「毒親」という言葉の意味から「自分の親」の種類分けを試みてみた。
「言葉の意味」という視点で考えると、やはり僕の両親は「毒親」だ。
僕の両親は「子供(僕)」に害悪を及ぼした。
コレは間違いない。
次に注目したのが「子供の人生を支配する親」なんだけど…。
…。
「子供の人生を支配する親」
「この部分」に注目する事で気が付いた。
僕はどうやら「ココ」に引っかかっていたらしい。
僕の母は、僕の人生を支配していた。
この話はコチラからどうぞ↓
この「支配」という言葉に惑わされていた感が強い。
僕の人生は、間違いなく「両親と兄」に支配されていた。
しかし、僕の中の「支配」と言えば「兄からの支配」のイメージが強い。
例の如く、この話もコチラから↓
そして、Twitterで見かけた「毒親からの支配」というのも、「兄からの支配」に似ている。
僕の兄は、圧倒的優位に立つ「強者的支配者」だった。
Twitterを見ても、親という圧倒的優位に立つ「強者的支配者な毒親」が多数派な様に見えた。
しかし、僕の母の支配は「僕を優しい言葉で支配する」やり方だ。
言い換えるなら「お願い」という形での「支配」だ。
つまり、僕より劣位(ってわけでもないんだけど)に立つ「弱者からの支配」と言えるだろう。
「強者」からの支配。
「弱者」からの支配。
相手が「親」であれば、どちらも「毒親」だ。
しかし、「兄の支配」や「多数派の毒親によるイメージ」に惑わされ、僕は「自分の親は毒親ではないのでは?」と感じたのだろう。
種類分けの必要性
なぜ、種類分けをするのか
種類分けをする理由はひとつだと思う。
わかりやすいから。
「楽だから」と言い換える事も出来るかな?
この時点で「理由がふたつになった」事は無視していただきたい。
それはさておき、「椅子」を「複数枚の板に複数本の棒を取り付けた、座ったり乗ったりする物体」なんて言い方をする人は極々稀だと思う。
何を言っているのかサッパリだ。
だから「椅子持ってきて!」とか「低めの椅子が良い。」とか「乗れそうな頑丈な椅子!」とか言うわけだ。
もっと言えば、「椅子っぽいやつお願い!」とさえお願いすれば、それっぽいモノを用意してくれるだろう。
コレは、最初から「椅子」という種類分けがあるからスムーズに行くんだと思う。
世の中、本当に様々な「親」がいる。
「良い親」から「悪い親」まで。
そもそも「良い悪い」なんてモノは、人によって感じ方が違う。
「僕の母」だって、聞いた人によっては「良い母親」だろう。
僕が「僕の母の話」をするには、先程の椅子の様に「板がどうの棒がどうの」と説明しなければ伝わらない。
ちゃんと伝わるのかも微妙なトコロだ。
そこで便利なのが「毒親」という言葉だった。
「僕の親は毒親だ。」
「僕は毒親育ちだ。」
このひと言で、僕の自己紹介の大きな部分を伝える事が出来る。
「種類分け」をする事で、大体を把握してもらえる。
そう思ったわけだ。
種類分けの弊害
「種類分け」というのは、便利な反面で弊害もあるのだと思う。
「言葉とは生き物だ。」
誰か偉い人がそう言ったらしい。
言葉の「意味合い」ってのは、時間が経てば少しずつ変化していく。
「ヤバい」なんて言葉も、元々は「危機感」を表す言葉だけど、いつの間にか「凄い」といった意味合いでも使われる様になった。
「毒親」という言葉も、そうなんだと思う。
「強者的立場で暴君的に支配してくる親」
そんなイメージになっている気がする。
「コレ」は、毒親とは縁遠い人程色濃く感じる。
逆に「毒親ガチ勢」の人の中には、「毒親とする判定基準が高い人」がいる気がする。
実際僕も「その程度」と、何人かに言われた。
まぁ、「その人達」がそうだっただけで、大半の「ガチ勢」は「それはツラかったね…。」と優しくしてくれたが。
こういった事も、ある種の「種類分け」の弊害だろう。
言葉の意味合いが変化すれば、当然「種類分け」だって変化する。
人によっては「毒親の定義」が違ってくる。
僕にとっては「毒親」でも、別の人からすれば「毒親じゃない」場合もある。
そういう弊害が「種類分け」にはあるのだと感じる。
種類分けの必要性
僕は自身の事をブログに書いている様な人間だ。
それってのはつまり、「僕の話を聞いて欲しい!」「僕の事を知って欲しい!」という思いがあるからなんだ。
誰だって、「興味のない人の興味のない話題」なんかに貴重な時間を割く事はしないだろう。
少なくとも僕はしない。
だから僕は、「僕の親は毒親です。」「僕は毒親育ちです。」と言ってきたわけだ。
そうすれば、「似た境遇の人が興味を持ってくれるだろう。」と思ったからだ。
しかし結果として、自分が混乱しただけだった。
なんともマヌケな話である。
誰かの目に留まりたければ、語彙力を高め、表現力を高め、SEO対策を学べば良い。
何も「種類分け」に執着する必要はないのだと思えた。
改めて重要だと感じた事
僕が感じた「僕の親は毒親とは違うのか?」という疑問。
その答えが見つかった。
僕は「毒親」だと思うけど、人によっては「毒親ではない」と感じるだろう。
「コレ」が僕が考え出した答えだ。
「毒親か否かに注目するのはナンセンスだな。」と。
どんな出来事があったのか。
何をされ、してくれなかったのか。
自分が何を感じ、どれだけ傷付いたのか。
「それ」を自分で探し、見つけ、認識して「表現」を考える。
この作業が重要なんだと改めて感じた。
「自分は親に酷い事をされたと思うけど、あの人と比べたら自分は恵まれている…。」
こう考える人もいるかもしれない。
実にナンセンスだ!!
親の「種類分け」なんてどーでもイイのよ。
ツラいと思うなら、そう思えば良い。
自分の親が「毒親」じゃなかったとしても、「悪い面、毒な面」は誰にだってある。
感じたモノに良いも悪いもねえのよ。
「誰かに伝えたい、知って欲しい。」
「だけど、自分の親は毒親じゃないかも…。」
それなら「ウチは毒親ってわけじゃないんだけど、自分はツラい目に遭ってきた…。」で良いんだと思う。
もっと伝えたいなら、国語を学んだり本を読んで語彙力を高めれば良い。
大事なのは「毒親かどうか」ではなく、「自分の傷の認識」と「その表現」なんだと思う。
つまり、問題なのは「僕の親の種類分け」ではなく、「僕の語彙力の無さ」なのだ。
つらたん…。