僕の父は自殺未遂をした事がある。
まぁ、母と兄もするんだけどね。
我が家で1番最初に自殺未遂をしたのは父だった。
思春期真っ只中だった僕の心情や、「こう思っていたんじゃないか?」という父の心情を書いていこうと思う。
ただ、実を言うと、この「父の自殺未遂」についてはあまり憶えていない。
僕にとって、初めての家族の自殺未遂だった為のショックの可能性もある。
だけど、僕自身は「どうでも良かったんじゃないかな?」と思っている。
とにかく、細かい状況なんかは覚えていないんで、気軽に読んで下さいな。
海辺で発見された父。
僕が中学校に入りたての頃だったと思う。
もしかしたら、まだ小学生だったかな?まぁ、その辺です。
なぜかは憶えていないのだけど、母と僕は、父を探していた。
何日か父が帰らなかったからなのか。
遺書的な物があったからなのか。
とにかく「何かがオカシイ」ということで、母と僕は父を探していた。
そして、父を発見したのは母だった。
カーさん「海で見つけたから、すぐに来て欲しい」と、母からの連絡を自宅で受けた記憶がある。
自宅で連絡を受けた記憶はハッキリ残っているので、僕が本気で父を探していたのかは少しアヤシイ。
とにかく僕は、母に指定された場所へ向かった。
指定された海岸は、当時の自宅から、徒歩で30分から40分程度にあった。
元々、海水浴場ではないことや夏場ではなかったことから人はいなかった。
誰もいない砂浜に父は横たわっていた。
父の周りには大量の酒瓶と、不法投棄された原付が転がっていた。
後で分かる事なのだが、父は大量のお酒と、「不法投棄された原付の何らかの液体」を飲んだらしい。
それが、原付に残ったエンジンオイルなのかガソリンなのか、または溜まった雨水なのかはわからない。
とにかく、飲んだらマズイ物を飲んだらしい。
僕は、「ツラい」「悲しい」「怒り」といった感情を全く持たなかった。
只々、申し訳なかった。
これから来るであろう救急隊員。
これからお世話になるであろう病院関係者。
そういった方々に迷惑をかける事に、只々、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
病院に運ばれて。
父は病院に運ばれて、すぐに胃の洗浄をされたらしい。
結果を言うと、特に後遺症も残らずに済んだ。
「父の自殺未遂」は、僕にというより、我が家に影響を与えたと思う。
その頃父は、典型的なアルコール依存症だった。
イメージとしては「アル中」という言葉の方がわかりやすいと思う。
病院で診察を受けていれば、「うつ病」の診断もされただろう。
言い方が悪いけど、父は「壊れて」いた。
だけど「壊れた父」は、我が家では普通の光景になってしまっていた。
「飲んで」「騒いで」「暴れて」それで終わりだと思っていたけど、「自殺未遂」という、新しいステージに足を踏み入れた感覚があった。
少なくとも、僕はそう感じた。
父は入院する事になった。
とは言っても、1週間足らずで退院したが。
父の入院中、母と今後について話をしたと思う。
内容は覚えていないけど、「何かが変わる」様な不安があったのを憶えている。
当時の僕は「保守派」だった。
現状に満足しているはずはないが、現状が変化するのが怖かった。
今にして思えば、当時よりも悪くなる「変化」の方が少ないと思うのだけど、僕は兄からの暴力なんかもあって、頭がイッパイイッパイだった。
「これ以上の変化は、頭が追いつかない。」
そんな状態だった。
それは、母も同じだったのだと思う。
兄は別の思いだった様だ。
父が退院して。
父が退院した後、母と僕は、特に変化がなかった。
しかし、兄は違った。
兄は父に暴力を振るうようになった。
それまでの兄は「父の行い」に対して、無関心で貫いていた。
お酒を台所で捨てている事はあったけど、父に直接手を出す事は無かった。
それが、父が騒ぐと、黙らせる為に暴力を振るうようになったのだ。
初めは「黙らせる為の暴力」だったのだと思う。
しかし、その暴力はエスカレートした。
寝ている父の顔面に、いきなり椅子をブン投げるといった、誰が見てもヤバいと思う事をする様になった。
「このままじゃ死者が出る。」
この「兄の変化」が両親の離婚の大きな一因となった。
チッタの心情。
「父の自殺未遂」そのものについては、僕はさほど揺れなかった。
多分、ある程度の覚悟というか「予測」が出来ていたのだと思う。
「なる様になったな」といった感想が近い。
「父の自殺未遂そのもの」よりも、それが及ぼす影響に僕は揺れた。
環境の変化もそうだった。
だけど、父の自殺未遂自体に「揺れない自分」に揺れていたと思う。
父は僕を溺愛していた。
僕も「働いていた頃の父」は好きだった。
父はお酒に溺れて「変わって」しまった。
「変わってしまった父」を僕は嫌いだった。
「好きな父」も「嫌いな父」も、同一人物。
父は変わってしまったが、「好きだった父」が自殺未遂をしたのだ。
それなのに「揺れない自分」は、なんて酷い人間なんだろう。
そんな気持ちが言語化出来ずに、ドス黒い感覚として胸に残った。
父の心情。
そんなモンはわからないw
ただ、ツラかったのは分かる。
正直、これを書いている今、父が可哀想で少し泣きそうだw
外部のチカラを借りるべきだった。
父はモチロンの事、母も兄も僕も、その時点で心療内科にかかれば良かったと思う。
しかし当時、心療内科の「しの字」も出てきやしなかった。
父のアルコール依存や、うつ病らしい症状は悪化する一方だった。
父は孤独だったと思う。
父は友達らしい友達もいなかった。
ひとりだけ心当たりがあるけど、とある事情で僕ら家族は、父がその人に会うのをよく思わなかった。
「その人」も父に「あまり自分に関わるな」という様な事を言っていたらしい。
冒頭の文章から分かる様に、溺愛した息子からはこの反応だ。
母からは「不倫」を喰らっている。
兄はヤバい。
父の味方をしてくれる人なんていたのだろうかと思う。
そう考えると、父の心情はとてもツラいものだと思う。
今の僕の心情。
今から10年近く前の事だ。
僕は母に用事があり、電話をした。
用事の話が済み、ついでの様に母から聞いた。
カーさん「トーさん、亡くなったって…」
チッタ「そう、やっと楽になれたね。」
本当にそう思った。
その頃の僕は、まだ「家族の心情」というものを理解しようとしていなかった頃だった。
自分の受けた「傷」の深さは把握出来ていた。
だけど「家族が負っていた傷の深さ」を理解しようとする前の事だった。
そんな僕でも、父がツラい人生であろう事だけは分かっていた。
だからこその感想だ。
今でこそ、父に手助けが必要だったのがよくわかる。
そんな父に「僕たち」が、どれだけ酷い扱いをしたのか。
父がどれだけツラかったのか、理解は出来ないけど「想像」は出来る。
申し訳ない事をしたと思う。
だけど、僕は全面的な謝罪をするつもりはない。
「お酒に溺れた父」に、我が家は荒らされた。
僕はその当事者だ。
「あの人は病気だから許してあげて。」
それだけで許せるほど、僕は聖人じゃない。
だけど、いつまでも「被害を受けた部分だけ」を見ているのも、それもまた違うと思う。
僕が「被害者」で居続けても、僕は前に進めない。
僕は「家族を許したい」と思っている。
自分の傷を無視してもダメ。
家族の傷を無視してもダメ。
バランスが大事だと思うんだ。
自分が受けた傷はシッカリと認識して。
だけど、「被害者にだけ」になってしまわない様にする。
「家族はこんな状態だったんじゃないか?」
「家族はこう思ってたんじゃないか?」
勉強して、想像して。
そうやって、「僕の家族」の事を理解していく事が「許し」に繋がると考えている。
いつか、父の事を本当に許せる日が来て、弔う気持ちが出てきたら、父のお墓参りに行くのも良いなと思っている。
その時は、墓前にはソフトドリンクを供えようと思っている。