「がんばる」の迷走。

「あなたは何のためにがんばっているのですか?」

この問いに「自分の言葉」で答えられる人は、充実した日々を過ごしているんじゃないかと思います。

もし、「当たり前だから。」とか、「出来て当然だから。」と答える人。

僕も昔は「仕事なんて、頑張るのが当然。」と、考えていました。

今では「この考え」は危険だと思います。

 

その「当然の頑張り」だと考えているものに、「思った様な報酬が無い」場合、いつか「ガス欠」を起こすのだと。

実際僕は、お酒に頼る様になりました。

「鬱病を患う人」というのも、「このタイプの人」なんじゃないかと思います。

まぁ、統計とか取ってないし、あくまでイメージですが。

今回は「がんばりの迷走」と「充実したがんばり」について少し。

「何のためにがんばっているのですか?」

僕は20代の頃、コンビニの夜勤でアルバイトをしていました。

自分で言うのもナンですか、かなり「がんばる」バイト君だったと思います。

具体的に言うと、

  • 作業時間短縮の為のシステム作り。
  • 酒類(担当でした)の余分な在庫を抱えない徹底管理。
  • 客数が増えるであろう近隣のイベントの洗い出し。

みたいな感じで、アルバイトの枠を超えた事にまで手を出していた感じです。

そこまでやっていると、オーナーや店長からの評価は上々でした。

まぁ、「評価」が上がるだけで、「給料」までは上がりませんよね。

アルバイトだし、そんなもんです。

 

「アルバイトなんだし、がんばったトコロで時給は上がらない。」

僕は「その事」を当時から理解していました。

それでも「がんばっていた理由」は、「給料を貰っているんだし、給料以上の働きをするのが当然だから。」という考えがあったからですね。

しかし「この考え」は、僕の「表面上の思い」に過ぎませんでした。

「思考を止めていた。」と言っても良いでしょう。

つまり、「がんばる理由を自分の言葉で説明出来る程、自分の事を理解しておらず、自分の行動に対して、それっぽい言葉を並べた。」だけです。

「何のためにがんばる?」ではなくて、僕の場合は「勝手にがんばってしまう。理由はわからない。」といった感じでした。

だから僕は「がんばるのが当然。」と、自分に言い聞かせて、自分を無理矢理納得させていました。

その人は褒めてくれないし、そもそも「そこ」にはいない。

人が「がんばる」のは、何かの「報酬」が欲しいからだと思います。

「もっとお金が欲しいから!」とかが分かりやすいですね。

「筋肉付けてカッコよくなりたい!」と、筋トレを「がんばる」のも、「望んだ姿という報酬」の為だと思います。

僕が望んでいた報酬は「母に褒めてもらう」事でした。

 

コンビニバイト時代から少し経ち、「自分ががんばる理由」が少しずつ分かってきました。

僕は「上の人」に気に入られたかったのです。

「雇い主」でも「上司」でも、そういう人に「必要とされたかった」からがんばっていました。

しかし、コンビニバイト時代の僕は、「満たされた。」とは感じません。

むしろ、「不満や不服」といったモノを感じていました。

 

コンビニバイト時代の僕は、オーナーや店長からの評価は上々でした。

「賞賛の言葉」だって、多数もらいました。

だけど、満たされない。

日に日に苛立ちが募るばかり。

「この事だけ」が原因ではないですが、僕は徐々に「眠る事」が出来なくなり、お酒に頼り始めました。

今だからわかる事なのですが、あのコンビニで、どれだけがんばり、どれだけ賞賛を得ても、僕が「満たされた。」と感じる事はなかったでしょう。

だって、僕が本当に「賞賛されたい」相手は、「母」だったのだから。

 

僕はずっと、母に褒めて欲しかった。

母に必要とされたかった。

兄ではなく、僕を助けて欲しかった。

それを「上の人」に、無意識に求めていたんです。

「上の人」と「母」を重ねていたんですね。

 

だから「上の人」に気に入られようとがんばった。

だけど、「上の人」に褒められても満たされない。

満たされないのは、僕がコンビニバイトで、どれだけ「がんばったアピール」をしても、母は僕を褒めてくれないから。

そもそも、母は「そこにはいない」ので、当たり前です。

だけど僕は、「母がそこにはいない事」に気付かず、がんばっても、がんばっても満たされない不満や不服に苦しんだんです。

 

人は「報酬」があるから「がんばれる」のだと思います。

馬だって、エサを貰えたり、ブラッシングしてもらえるから、がんばれるんじゃないでしょうか?

アルバイトの報酬が給料であるなら、「普通」にしていれば報酬を貰えます。

というか、別に「がんばらなくっても」給料は貰えます。

僕は「給料じゃない報酬」を求めてがんばっていたのだと思います。

しかし、「給料じゃない報酬」、「僕が求めていた報酬」を貰えないまま走り続けた先は「ガス欠」でした。

「ガス欠」が「睡眠障害」として出てきたのだと思います。

目的と手段。

「僕がどれだけがんばったって、母は褒めてはくれない。」

僕は、「その事」に気付きました。

正確に言うと、「僕が欲しいモノはくれない。」ですね。

 

アルバイトでのひとり暮らし。

金銭的余裕がない中で、僕は母に「お金を渡して」いました。

母は口では感謝を述べます。

褒めてもくれました。

しかし、「僕が本当に欲しかったモノ」をもらえる事はありませんでした。

僕自身が「本当に欲しかったモノ」を認識していなかったので、当然ですね。

 

当時の僕は、「お腹が空いていたので、野菜を栽培していた」様なモノだと思います。

「お腹が空いている」のだから「野菜を栽培する」のは、まぁ、間違っていないでしょう。

もっと合理的な方法はありますが。

しかし僕は、「お腹が空いている」事を分かっていなければ、「自動車のタイヤを作っていた」様な状態でした。

分かりにくい例えですねw

 

僕はお腹が空いていた。

つまり、「母の愛情」に飢えていたんです。

しかし、母が僕に求めていたモノは、「お金になる、自動車のタイヤ」でした。

だから僕は「自動車のタイヤ」を作り、母に渡します。

母は僕に、報酬として「愛情に似た毒キノコ」をくれました。

まぁ、「毒キノコ」は食べられませんよね。

モチロン「自動車のタイヤ」も食べられません。

「コレ」では、僕が満たされるわけがありません。

 

作りたくもない「自動車のタイヤ」を作り。

食べられない「毒キノコ」をもらい。

飢えに負け、「毒キノコ」を食べて体調不良になり。

「お腹が空いた」ままで、そもそも「空腹である事」にすら気付いていない。

それでも「がんばる」先に、明るい未来は視えない。

僕は「がんばる」の迷走をしていたんだと感じます。

少なくとも当時の僕は、悲観的で破滅的だった様に思います。

 

「お腹が空いている」のなら、野菜を作ればいいのです。

野菜じゃなくても、魚を獲りに行ったっていい。

「自動車のタイヤ」を作ったっていいのですが、それなら、「食べられる物」に交換すればよかった。

「空腹」という現状を知り、「空腹を満たす」という目的を定め、「食べ物を得る」という手段をがんばる。

「こういうがんばる」は、「良いがんばる」だと思います。

もっとも身近な褒めてくれる人。

筋トレをして、ゴリゴリのマッチョになった人がいるとしましょう。

筋トレはツラいです。

「ゴリゴリマッチョ」になる為には、食事の管理も必要ですね。

お金も手間もかかります。

「そんな苦労」をして、「自分が求めたカラダを手に入れた」なら、きっと褒めてくれると思います。

「自分自身」という、もっとも身近な人に。

 

もし、「自分自身が褒めてくれない」のなら、一度立ち止まり、考えてみる様にしています。

「お前、マッチョボディが本当に欲しかったの?」と。

「本当は、モテたいからマッチョボディになろうとしてるんじゃないの?」と。

「目的と手段」の話ですね。

「ゴリゴリマッチョ」が本当の目的なら、「ゴリゴリマッチョになった時点」で、自分自身が褒めてくれると思います。

「自分自身が褒めてくれない」という事は、「他の要因がある。」と、僕は考える様にしています。

 

「自分を褒められる」という状態を、僕は「みちしるべ」の様に捉えています。

「自分を褒められる状態」とは、「自分が満たされている状態」であると考えているからです。

逆に、「自分を褒められない状態」というのは、「自分が満たされていない状態」なのではないかと。

  • 「ゴリゴリマッチョ」になったのに、自分を褒められない。
  • 「ゴリゴリマッチョ」になったのに満たされないのは、何か別の要因があるのでは?
  • そもそも僕は、本当に「ゴリゴリマッチョ」になりたかったのか?

こんな感じです。

もし、「モテたいから」が、本当の目的であるならば、「モテたい欲が満たされていない」のなら、「ゴリゴリマッチョ」は効率が悪いという事ですね。

僕なら「別の手段」を考えます。

 

「自分自身」は味方に出来ると、とても心強いです。

「味方に出来なかった頃」の自分自身は、僕に平気で嘘を並べます。

だけど、「味方に出来た今」は、とても良い「みちしるべ」になり、僕を支え、時には叱りつけてくれます。

「自分自身」に褒めてもらえた時、僕はとても満たされます。

正直、それだけで十分なのです。

僕の「自分自身が味方になってくれるまで」には、それなりの時間や苦労がありました。

実際に「何をした」のか。

なんと、「読める」んですよ!このブログで!!

なんと、タダ(無料)で!!

キショいですね。

まぁ、興味があったら読んでみてください。

呪いのノート

「がんばる」を止められない。

「目的と手段」がどうのってのの他にも、「がんばるのをやめられない」という人もいるかと思います。

「がんばる事を強いられて育った呪い」から、「がんばる事をやめられない人」みたいな。

「なんでこんな事も出来ないんだ!」

「がんばりが足りないんだ!」

本当に強く、悲しい呪いだと思います。

しかし、がんばっても満たされるモノではないと思います。

 

僕自身、覚えがあります。

僕は聴力が弱いのですが、子供の頃は兄に指摘され続けました。

「聞き返す」事はタブーです。

一回で聞き取らなくてはいけません。

ですが、僕の聴力では無理なのです。

どれだけ、常に周囲に注意を向けても、聞き取れないことの方が多い。

「聞き返した数」を、兄は罪と称し、カウントし、その数(以上?)を「僕を殴るという教育」をしました。

「聞き返すのは、がんばりが足りないからだ。」と。

「がんばりが足りないのは、悪である。」と。

 

おかげさまで僕は「病院の待合室で名前を呼ばれる際」などで、胸が高鳴る様になりました。

別に「病院で聞き漏らした」って、殴られもしなければ、怒られもしません。

ですが、ダメなのです。

「一回で聞き取れる様に、がんばらなくては!」

そんな呪いをかけられました。

この「呪い」を解くのは難しい。

今でも解けてはいません。

 

「そんな時」は、自分にこう言ってあげる様にしています。

「大丈夫。呪いの元凶は、もう、ここには居ない。」

「お前ががんばっているのを、俺はちゃんと分かっている。」

正直、「問題解決!」とまでは行きませんが、僕は少し楽になります。

自分の為にがんばる。

明らかにオーバーワークな人を、たまに見かけます。

「明らかにゴリゴリマッチョ」なのに、「まだだ…。もっと、もっと…。」みたいな。

本当に、「自分の理想のゴリマッチョ」を追い求め、その欲が膨らみ、更に進み続けるのは、充実してるんだろうと感じます。

この人にとって「明らかにゴリゴリマッチョなのに…。」という、「他人の目」は重要ではないのでしょう。

ただの主観、「自分がこうなりたい!」と思う姿を追求する為のがんばりは、やっていて楽しいですから。

僕も昔、ダイエットした時は「そんな感じ」でしたね。

 

僕は子供の頃、太っていました。

兄は僕を「脂身」と呼んでいましたが、上手い事言うなぁと思います。

そんな僕は、急にダイエットを始めました。

夜な夜な走り出したのです。

「痩せてモテたい!」とか、「家族から肥満を侮辱されたくない!」とかって理由ではありません。

「僕が痩せたら面白そう。」とだけ思ったんです。

 

「痩せた僕」というのは、「僕の中であり得ない状況」だったんです。

僕は産まれてからずっと、肥満でした。

「重量によって、物が下に落ちる」様に、「僕の肥満」もまた、当たり前の世界だったのです。

もし、努力次第で「かめはめ波」が撃てるのなら、試さない男子はいないと信じています。

「撃てるのなら、撃ってみたい。」

ただ、それだけの「純粋」な欲求。

この「純粋な欲求」というのは、「自分の為の欲求」だと思います。

 

僕は純粋に、「僕が痩せた世界」というのを見たかった。

だから「がんばれた」し、「がんばる」のが苦じゃなかった。

楽しかったし、充実もしていました。

僕は「痩せた僕」を、誰かに見て欲しかったわけじゃなく、自分が見たかった。

そういう、混じりっ気のない「自分の為にがんばる」は、とても充実した「良いがんばる」だと感じます。

本当に「誰かの為に」がんばっているのでしょうか?

僕の母は「ニーちゃんの為に。」と、僕の兄に色々と「がんばって」いました。

結果、母も兄も、「良い結果」とは思えない状態になったと、僕は感じます。

 

結果論ではありますが、「母のがんばる」は「兄の為」にはなっていませんでした。

本当に「兄の為」を思うなら、母がした「甘やかし(がんばる)」は、悪手以外の何でもなかったのです。

「兄の為のがんばる」であるなら、母は心を鬼にし、兄の要求に対して毅然と「NO!を与えるがんばり」が必要だったと僕は思います。

憶測でしかないのですが、母は「自分の為にがんばった」のではないかと思います。

「ニーちゃん(兄)が怖いから。」

「ニーちゃん(兄)への罪悪感を拭いたい。」と。

「その事」に、母自身が気付いていなかったのではないかと考えています。

 

本当に「兄の為」を思うなら、「兄の要求通りにお金を出す」のは悪手です。

そして、「母自身の為のがんばり」であっても、「兄の要求通りにお金を出す」のは悪手だったと感じます。

母が兄にお金を出しても、兄の要求はエスカレートし、恐怖が増すだけです。

「ニーちゃん(兄)には申し訳ない事をした。」と考え、お金を出していても、「兄がして欲しい罪滅ぼし」とは方向が違うと感じました。

要するに、「どっちつかず」なんです。

だから「良い結果」にはならなかったのだと思います。

 

もし、母が「自身の為にがんばっている。」と考える事が出来たなら、そもそもの行動を考え直す機会があったと思います。

もし、「良いんだよ。自分の為だから。」と、割り切って行動してたなら、もっと生き生きとしていたんじゃないでしょうか。

「まぁ、自己満足(罪滅ぼし)でやってるし、別に良いかなw」みたいに。

 

本当は「自分の為」にがんばっているのに、「誰かの為に」と誤認してのがんばりは、誰も幸せにはならないんじゃないかと思います。

僕は自分が認識している限り、「誰かの為にがんばる」事はありません。

全部自分の為のがんばりです。

「他者に良い影響を与える」がんばりも、自分がしたいからの事です。

「プレゼントをあげる」とかも、自分がそうしたいからです。

「したくないがんばり」はしません。

「仕事でがんばっている様に見える」場合でも、僕は「会社ではなく、自分の為にがんばっているだけ」です。

充実したがんばり。

僕は今、当社比ではあるモノの、充実した人生を送っていると思います。

全部、自分の為にがんばっているからだと思います。

 

例えば、このブログです。

人によっては、「がんばっている」様に見えるらしいです。

でも、正直言うと、僕は「誰かの為に!」と、ブログを書いてはいません。

「暇つぶしになれば。」とか、「こんなブログでも、誰かのキッカケになるなら。」くらいには考えてますけど。

「誰かを救いたい!」とかは考えないですね。

そもそも、「誰かを救える。」なんて思ってませんし。

完全な自己満足です。

 

以前、とある「動画投稿サイト」で、「とある投稿者さん」を見かけました。

「自宅で飼われている猫」の動画を上げている投稿者さんでした。

あまり人気が無い様で、再生数も50再生とか、そんな感じ。

ただ、「投稿本数」がエグい。

軽く100本以上投稿されてましたね。

だけど、どの動画も「数十再生」程度。

「一桁」の動画も結構ありました。

もうね、「狂気」を感じましたよw

只々、すごいな。と。

なんか、憧れました。

 

多分、「再生数(他人)の事」を考えて投稿していたなら、とっくに心が折れていたはず。

多分、「ただ、投稿したいだけ。」なのでしょう。

多分、「猫が可愛くて仕方がないだけ。」なのでしょう。

もしかしたら、「アルバム」として動画投稿サイトを利用していただけかもしれません。

だけど、充実してるだろうなー。と。

 

僕は今、「自分の為」にブログを書いています。

自分の内情を整理出来ますしね。

観覧数とか、コメントでの反応とかは、あまり気になりませんね。

僕は僕で、「狂気的なブログ」を作れたら楽しいと思うので。

そんなわけで、今の僕の「がんばる」は、「迷走」はしていないんじゃないかと感じています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です