家族との決別

僕の人生は「家族」に振り回されてばかりだった。

父はお酒に溺れ、経済的にも精神的にも「荒れた家庭」になった。

兄からは、日常的な身体的暴力や精神的暴力を受け、恐怖に怯えた毎日だった。

母は、「荒れた家庭」をなんとか保とうと頑張っていたが、僕を「優等生」としてコントロールし、僕に「自分の人生を歩む事」をさせてくれなかった。

 

僕は、父や兄とは早い段階で距離を置く事が出来た。

しかし、母との距離を取る事は中々難しかった。

曖昧な距離感のまま年月を過ごしていて、「まぁ、このままでも良いのかな?」と思っていた。

だけど、「あぁ、やっぱ無理だわ…。」と思い、母とは決別した。

母との決別は、「家族との決別」だった。

「家族との決別」に至るまでには、悩み、苦しみ、考え抜いた時間がある。

そんなお話。

 

この話は「母から受けた呪い」の話の続きみたいなモノになります。

先に読まれると、よりわかりやすいかと思います。

もし良かったらどうぞ。

母から受けた呪い

お金を出すのをやめた

僕がまだ20代前半の頃。

僕はとにかくお金が無かった。

 

ただでさえ、コンビニの深夜バイトだった僕の給料なんてのは、タカが知れている。

そこへ毎週、母からのお金の催促が来ていた。

当時の僕はひとり暮らし。

日々の生活もカツカツだ。

だけど、僕は「母からのお金の催促」を断る事が出来なかった。

 

僕は昔っから「自分の家族事情」を面白トークだと思い、ベラベラと周りに言いふらしていた。

「母からのお金の催促」が来ていた当時も、周りの人にベラベラと「自分の家族事情」を話していた。

幸いな事に、当時、周りにいた人達は、僕の「家族事情」を「面白い!」と笑ってくれる、「性格の悪い、心の優しい」人達だった。

この人達は、本当に優しい人達だった。

僕の話には笑って応えてくれて、僕にとっても「良いガス抜き」になっていた。

なにより、僕が母にお金を出す事を「怒って」くれた。

「それ、チッタが出す必要あんの?」

「お前んトコ(家庭)は壊れている。」

「母親に(心を)殴られている事に気付いていないチッタに、本気で腹が立つ。」

「いい加減、目を覚ませ!!」

 

僕の「家族事情」を知っていた「性格の悪い」人達は、

  • チッタの過去の話や、チッタに直接的な被害の無い話は笑って聞いてくれた。
  • チッタに直接的な被害がある話は、家族をボロクソに罵倒してくれた。
  • チッタがズルズルと被害を断らない、断ち切らない時は、本気で怒ってくれた。

僕の人生は、本当に良い人達に巡り会えたと思う。

ソンなコンなで、僕は少しずつ、最後には完全に「母にお金を出す」のをやめた。

少しずつ距離を取って

「母にお金を出す」のをやめたわけだけど、コレはスンナリいったわけじゃない。

どれだけ周りから怒られても「だってさぁ、俺がお金出さなきゃカーさんが…。」といった感じで、中々「お金を出さない」決断は出来なかった。

DV被害者がどれだけ周りから別れるように言われても、中々行動出来ない状態に似ていたと思う。

周りがどれだけ「行動の改善」を勧めても、結局は本人が「行動する意思」を持たないと、何も変わらないんだと思う。

僕にとって母は、表面的には「厄介」「嫌い」な母だ。

しかし、「母親」には愛されたいし、捨てられたくない。

「母からのお金の催促」を断るには、かなり勇気の要る決別だった。

 

周りの勧めで「催促を断る」決断と、変化を恐れる現状維持で「お金を出す」決断の間の選択で僕は揺れていた。

結局、僕は「催促を断る」選択をした。

始めて母に「いや、コッチもお金無いから出せない。」と断った。

だけどそれは、「オッカナイ先輩」や、「もっとオッカナイ彼女」が怖かったからだ。

しかし、1回「催促」を断ってみると、2回、3回、と、「催促」を断るのは、かなり簡単なモノになっていった。

それでも、「催促」を断る事に対して、僕はシッカリと罪悪感を抱いていた。

この気持ちは「ドス黒いモヤ」「形のない不快感」といった感じで、僕の心にのしかかった。

 

当時、母との連絡内容は「お金の催促7割」「面倒な家族のやらかし2割」「面白い家族のやらかし1割」だ。

 

「催促を断る」のは、毎回僕の心にシコリを残す。

「面倒な家族のやらかし」は、終わりの無い「汚部屋掃除」みたいなモンで、「なんで俺が汚したわけじゃないのに、掃除しなきゃならんのよ…。」と、怒りが沸く。

つまり、母から来る連絡の「9割」が、僕にとっての「不快な連絡」だったんだ。

 

僕は、母からの連絡に怯え、最後には「電話の着信音」すらも嫌いなモノになった。

それが幸いしてか、僕の方から「母との距離」を取る様になった。

そして少しずつ、「面倒な家族のやらかし」についての連絡も、「そういう話、俺に持って来ないで。」と、母からの連絡を突き返す様になった。

こうやって、徐々に「母との距離」を取る様になった。

生きにくさを感じ始めた

母との距離を取った事によって、僕には「経済的」「精神的」に僅かながら余裕が出来た。

そこへ来て、「生きにくさ」を感じ始めた。

おそらく、「家族からの厄介事」ではなく「自分の人生」に視線が向かったからだろう。

 

「常にイライラしている」

「嫌いな人が多い」

「何をしたい、どうしたいのかが分からない」

そんな感情や思いがある事を「認識」し始めた。

楽しくないし、将来に希望も抱けない。

どうしたもんかねぇ…。

 

そんな時期、友人からの影響で、読書や「日記モドキ」を始めた。

この「日記モドキ」は、僕の人生をマジで変えてくれた。

僕はこの「日記モドキ」を「呪いのノート」と呼んでいる。

詳しくはこちらをご覧ください。

呪いのノート

これは「認知行動療法」みたいなモノで、ザックリ言うと「自分と向き合う作業」だ。

この「呪いのノート」の作成作業によって、僕の「どうありたいのか」という部分が見えてきた。

自分と向き合って

僕の「家族、育った家庭」は「壊れている」「病んでいる」「問題だらけ」だと思う。

僕はアルバイトながら働いていたし、自分の生活は自分で賄っていた。

少し変わり者だけど、人間的に「普通」だと思っていた。

それは勘違いだった。

僕も「壊れていた」し「病んでいた」し「問題だらけ」である事に気付いた。

自分と向き合った結果、見えてきた「トッカカリ」だった。

 

その「トッカカリ」が見えた事によって、自分に必要な「知識」がわかってきた。

「アダルトチルドレン」「愛着障害」

「なんのこっちゃ?」って感じだったけれども、「自分もそうだ!」という認識によって、スンナリと頭に入る様になった。

それからは「家族問題」やら「虐待」やら、自分に関係する、自分が興味を持つモノが分かり、本を読んだり調べたりした。

 

そうこうしていくと、「自分がしたい事」「自分のありたい姿」「自分の望む生き方」がわかってきた。

僕はヘラヘラ生きたいんだ。

  • ちょっとした問題には動じない。
  • 問題解消のチカラを身に付ける。
  • 「穏やかな生活」の中で生きる。

「大きな幸せ」「自分が残した偉業」

そんなモンは要らん!

日常を「ヘラヘラ」「ニヤニヤ」と楽しんで生きていたいんだと、「僕自身」が思っているのを「僕」が認識した。

最後の繋がりを残した理由

僕が20代後半になると、「生きにくさ」を感じる事が少なくなった。

僕自身、自分が「成長」している実感があった。

  • 僕が抱えている問題にも気付けた。
  • 僕がどれだけ傷付いているのかも気付いた。
  • 母から「呪い」をかけられている事にも気付いた。

これらに対して、「自分がどう向き合うか」「どんな知識が欲しいか」そんな模索をしていた。

 

その頃には、母との連絡もほとんど無くなっていた。

「母(家族)とは、離れていた方が良い」

母からの「呪い」を「解呪」する為には必要だと思ったからだ。

何より、僕自身が「母と離れる事」を望んだから。

移住先も母には伝えず、「最後の連絡手段」として、電話番号だけは伝えてあった。

その電話番号も、「兄にも親戚にも教えるな!」と、念押しした。

僕は「僕の家族、親戚」との関係を断ちたかったんだ。

因みに、その時すでに父は他界している。

僕と母は(兄もだけど)、年単位で連絡を取っていない仲になった。

 

なぜ、「電話番号」だけは伝えていたのか。

将来、心の底から「家族」を許せる日が来たとしたら、面と向かって「もう大丈夫。心の底からアナタ達を許しているから、もういいよ。」と言ってみたかったから。

虐待被害者の筆者が書いた自伝で、筆者が虐待加害者である「母」に「許し」を伝えた話を読んだ事が影響した。

「僕もこうなりたい。」

そう思い、僕のある種の原動力になっていた。

母(家族)との決別

随分と前置きが長くなりました。

時は進み、僕が30代前半の頃に、「母(家族)との決別」を決意した出来事があった。

 

僕はその頃、まだまだ「問題」を抱えつつも、穏やかに生活していた。

自分の「心の傷が癒えた」とまではいかないけれど、「生きにくさ」を感じる事はほとんど無い。

「家族の事を、かなり許している状態にあるんじゃないか?」

そんな風に感じていた。

母とは(兄もだけど)何年も連絡を取っていなかった。

母からの連絡なんて、兄の厄介ごとがほとんどだ。

その連絡が無いという事は、母と兄は上手くやっているんだろう。

 

「最後の連絡手段がある」

「だけど、厄介ごとが来ることも無い」

「この距離感なら悪くないな。」

そう思っていた。

 

そんなある日、母から連絡があった。

数年ぶりの電話。

「なんの話だろう?」

しかし、僕自身、かなり成長出来てる実感があった。

「家族」の事を許せている感覚も出てきた。

「今なら、心をブレさずに話しが聞けるかも。」

そう思い、母からの電話に出る。

 

要約すると、母と兄は上手くいっていなかった。

兄は「良く」なっていなかったし、相変わらず母にお金をせびる。

母も、兄との根本的な問題を解消しようとはせず、騙し騙しな日々。

話の内容も「兄からの要求に応えられず、脅迫まがいな事を言われて困っている。」との事。

そんな話は、過去に散々聞かされている。

僕はいつも通り「俺みたいなシロウトではなく、警察へどうぞ。」とだけ返し、電話を切った。

 

数年ぶりの会話は、過去と似た様なモノだった。

しかし、僕は激しく動揺した。

激しく高鳴る胸の鼓動。

恋か!?

否、断じて否!!

これは「動悸」だ!!

僕はパニックを起こしかけている!!

 

僕が心をブレさずに、平穏に生活出来ていたのは、「成長」していたからでも「家族を許せた」からでもなかった。

単純に、母(家族)との距離を取っていたからだった。

母の声を聞いただけで、兄の厄介ごとを聞いただけで、こんなにも僕の心に「ブレ」が生じるのか。

絶望だった。

 

僕の「成長」はあっただろう。

家族の事を、少しは「許せて」いただろう。

しかし、コイツら(家族)は強かった。

「心から許しているから、もう大丈夫。」だぁ?

笑わせるな!!

ダメだ。勝てる気がしない…。

「あぁ、やっぱ無理だわ…。」

僕は、母(家族)との決別を決意した。

悩み、考え抜いた先の決別

例のごとく、僕は「母(家族)との決別」を、スンナリ決意出来たわけじゃなかった。

まず、真っ先に「決別した方が良い」という考えが頭に浮かんだ。

それは

  • 「いつも通りの母の話」のはずなのに、激しく動揺した。
  • 「癒えた」と感じていた心の傷は、「母(家族)」との接触で簡単にこじ開けられる事がわかった。
  • このままなら、その内、また連絡が来るだろう。
  • 僕の心の傷を癒すためには、母(家族)と離れる事が最重要事項。

こう考えたからだ。

 

だけど、「決別を拒む」考えも頭に浮かんだ。

  • 決別し、完全に姿をくらませたら、家族に対し、面と向かって「許した」と伝える「ベストエンド」は迎えられない。
  • 母と兄の関係が相変わらずの状態なのに、母が僕にほとんど連絡して来なかったのは、「僕を想って」くれた母の愛情なんだろう。
  • それを無下にして、自分だけ逃げるのか?

こう考えた。

 

僕は、このふたつの考えの間で、悩み、考え抜いた。

考え抜いた末、僕は「逃げる」選択を取った。

決め手になったのは、「僕がどう生きたいか」というモノ。

僕はやはり、「ヘラヘラ生きたい」んだ。

  • 「ベストエンド」を迎えられなくっても、「Bエンド」「Cエンド」でヘラヘラしてれば良いじゃないか。
  • 連絡の度に「カサブタ」を剥がされる様では、僕の心の傷が癒える事はない。               そんな状況では、「ベストエンド」どころか「Bエンド」も「Cエンド」も迎えられない。
  • 母は僕を想って、連絡を控えてくれたじゃないか。           今の距離感を保てないのか?
  • 多分無理だ。           いずれ、また連絡してくるだろう。
  • 母の気持ちは?
  • 申し訳ないが、自分の事で精一杯だ。               僕は僕の人生を歩みたい。

こんな考えに辿り着き、僕は「決別」を決意した。

決別をして

具体的に、どう「決別」したのか。

僕はまず「住民票の観覧制限」をかけた。

これは、「僕以外」が「僕の住民票」を観覧出来なくする制度。

詳しくはこちらをご覧ください。

縁切り

この「住民票の観覧制限」をかけた事によって、「僕の居場所」を家族に知られる心配がほとんど無くなった。

 

次に、僕は母へ電話した。

  • 僕が自分の人生を歩みたい事。
  • 今のままでは、自分の人生を歩めない事。
  • 姿をくらませる事。
  • 僕の事が心配かもしれないけど、僕も自分が「ヘラヘラ生きられる」為に頑張る事。
  • 母も、兄とは距離を取った方が良い事。

これらを伝えた後、僕は電話番号を変えた。

 

悩み、苦しみ、考え抜いた決断だった。

今のところ、後悔は一切無い。

今、後悔や罪悪感が無いのは、自分で悩み、苦しみ、考え抜いて、他の誰からの指示ではなく、「自分の意志」で取った行動だからだろう。

初めて「母からのお金の催促」を断った時、僕には罪悪感が強く残った。

それは、「自分の意志」というより「周りに促された行動」という意味合いが強いからだろう。

 

母には可哀想な事をしたとは思っている。

愛していたであろう息子から、「姿をくらます」という「決別」を宣言されたわけだから。

おそらく母は、僕には想像出来ない程に傷付いただろう。

だけど僕は罪悪感を感じていない。

それは、僕が「自分の人生を歩む」為に必要だと、悩み、苦しみ、考え抜いて出した「結論」「行動」だからだろう。

仮に将来、「もっと良い選択」があった事に気付いたとしても、後悔や罪悪感は湧いて来ないと思う。

「なるほど、そんな選択もあったのか。」

「だけど、当時の僕は精一杯の選択をした。後悔は無い。」

と、考えると思う。

 

今はまだ、「家族」の事は許しきれていない。

と、いうか、別に「家族」の事は許せなくても良いと思っている。

僕の「頭の中の家族」を受け入れて、心を整理して、ゆっくりと「僕の傷」が癒えていけば良いんじゃないかと。

いつか、「家族」を許せる時が来たら、眠ってるであろう「お墓」を本気で探してみるのも良いんじゃないかと思っている。

それはそれで楽しみな気がする。

 

 

 

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